「大阪地区学修会発足20周年を迎えさせて戴いて」


大阪地区 T.Y

 2012年3月8日をもちまして、大阪地区学修会発足20周年を迎えることとなりました。

 私は今から25年前、1987年8月、金沢の姉のお誘いにより、法に触れさせて頂き、金沢の丸山弘先生に初めてお目にかからせて頂きました。それから間もない頃、先生宅の学修会におきまして、「貴方様も、大阪でいつかこのような学修会が開催出来るように励んでください」と仰せられました。しかし、一体どのようにすればよいのか皆目分からず、ある日、恐る恐るお電話で丸山先生にお尋ね申し上げましたところ、先生は即座に「ご主人様に伝道してください」と仰せられました。私は直ぐに主人に、金沢地区学修会に一緒に参加させて頂くことを提案いたしますと、主人は快く承知してくださいました。その頃、主人は人生に行き詰まりを感じ、何か有意義なお話をお聞きしたいと思っていたこと、そして、「妻の言うようにすれば、何かいいことがあるかなあ」と思ったそうです。

 1989年6月、私は主人をお連れして、金沢地区学修会に参加させて頂きました。学修会が終わり、大変有り難いことに、丸山先生には私たちに後で残るようにおっしゃってくださいました。そして、開口一番、こちらが何も申し上げないのに、突然主人の健康についてお尋ねくださいました。私はこの時とばかりに、主人の心臓手術についてお尋ね申し上げました。

 「主人は、今から4年前、1985年2月に心臓弁の取り替え手術を受けましたが、生態弁には寿命があるため、人によってはこの先、数年毎に心臓弁の取り替え手術を受けなければならないとお聞きしておりますが、主人も取り替え手術を受けなければならないでしょうか」とお尋ね申し上げますと、即座に先生は「物には寿命があります。いずれ故障がくるのは時間の問題です。細胞の一つ一つにも意識があります。違う肉体の細胞を持って来て、いきなり他の肉体細胞にくっつければ、不調和を起こすのは当然です。細胞意識と話の通じる者から、子牛の弁の細胞意識と貴方様の肉体細胞意識が調和するよう、よくお願いする必要があります。私がやってあげましょう」と仰せられて、本当に勿体なくも有り難いことに主人の心臓に、偉大な偉大な神仏様の「御ひかり」を入れてくださいました。

 あれから23年、手術を受けた日からすでに27年間が過ぎておりますが、今まで、一度も心臓弁の取り替え手術を受けることなく過ごさせて頂いております。子牛の弁の意識細胞は、あの日、丸山先生が言って聞かせてくださいました通りに、主人の肉体の一部となって調和し、自分の使命をただひたすらひたすら、一度も休むことなく、一生懸命果たしてくださっていたのです。人間には自我があり、疲れた、休みたい等と言って、休んだりすることが出来ますが、子牛の弁には自我というものがありません。ただ素直に神仏様より与えられた自分の使命をひたすら忠実に守り働いてくださっていたのです。その健気な子牛の弁の一生懸命働いてくださっている姿を初めて画像を通して見せて頂いた時、子牛の弁の細胞にも確かに意識がある! 一瞬も休むことなく、一生懸命一生懸命、パックンパックンパックンと働いてくださっている姿にあまりの感激感動で涙が溢れました。

 本当に本当に子牛の弁よ、有り難うございます。有り難うございます。お蔭様で主人は、普通の、いえ、健康な人の2、3倍以上も元気に仕事をさせて頂くことが出来ました。

 丸山弘先生、主人の心臓に、偉大な神仏様の「御ひかり」を入れてくださいまして、本当に本当に有り難うございます。

 大宇宙大神霊・仏様、偉大な主・高橋信次先生、偉大なイエス様に対しまして心より心より有り難く感謝をお捧げ申し上げます。

 さらに、今から21年前、今度は私が近くの大きな病院でガンの疑いと診断されました。慌てた私は神仏様の「御ひかり」を戴きたくて、丸山先生のご自宅や会社にまでお電話させて頂きましたが、その時の先生のお言葉は「病気の人がわざわざ金沢まで来なくていいです。偉大な主・高橋信次先生のお話を拝聴して心が休まると言われるのなら、家でご講演テープを拝聴してください」と静かなご様子で仰せられました。私は思いがけないお言葉に愕然としてしまいましたが、丸山先生には「一つや二つ問題が起きたからといってガタガタと騒いではいけません。どっしりと心を落ち着けて、さて、一体病院は何処がいいだろうかと考えるだけのゆとりが必要です」とご指導くださいました。

 先生のお言葉を拝聴して、落ち着きを取り戻させて頂いた私は入院することに心を決め、「自分中心のとらわれの心」について反省を始めました。有り難くも2週間の反省で次第に心の落ち着きを取り戻すことが出来ました。

 丸山先生には入院を控えた私に二度もお手紙をくださいました。「世間では病気になったから不幸だ、仕事がうまくいかないから不幸だ等と言われますが、そんなことはありません。その人が病気を縁にして、自分の心を見つめ直すことが出来れば、その人は有り難い神仏様の大慈悲を戴かれたのです」また、「貴方様の病気は少しも心配なさることはありません。心配されるなら、むしろご自分の心を直すことをご心配されたら良いと思います」と書かれてありました。私はこのお手紙に心底勇気と希望を戴き、病気に対する不安が吹き飛びました。

 最初の病院では、「このままではガンになる可能性が高いので、今のうちに臓器を全部取ってしまいなさい」と主人に言われたそうです。しかし私は、神仏様のお造りになられた体に、不必要な臓器などあるのだろうかと疑問を持ち、このお医者様の言葉に抵抗を感じました。直ぐに丸山先生にご相談申し上げますと、「病院は一カ所で決めてしまわずに、何カ所かで診断を受けられることが大事です」と仰せられました。その後、掛かり付けのお医者様にご相談させて頂き、近くの大学病院に大変な名医がおられると教えて頂きました。数日後に、名医の診断を仰ぎますと、「大したことはありません。入院まで普段通りの生活を送ってください」とにこやかに事もなげに仰られましたので、ほっと安心いたしました。

 最初の病院で診断を受けた時から半月余り、私の病状はすでにすっかり回復させて頂いていたのでした。丸山先生のご指導により、肉体より先に、心がすでに健全にならせて頂いていたお蔭様と心より有り難く有り難く感謝をお捧げ申し上げます。

 2週間の入院の結果、細胞の精密検査の結果は「ガン」ではありませんでした。

 退院の許可がおりましたので、直ぐに丸山先生にお電話させて頂こうと思っておりますと、その日一日暗かった空から、突然サーッと後ろの病室の窓から光が差し込んで来ました。びっくりして後ろを振り返りますと、真っ黒な雲をかき分け、突然巨大な太陽様が病室の窓一杯にお姿を現されたのです。私は一瞬、息を飲み、直ぐに丸山先生にお電話させて頂きました。

 先生には大変お悦びくださり、「直ぐにその悦びをレポートにして皆様にもおすそ分けしてください」と仰せられました。私は嬉しくて、退院すると直ぐにレポートに取りかからせて頂きました。その時、退院間もない体には、鉛筆一つ握っても、お腹に力が入り、体のほんの些細な動きにも、今まで自分が気付かなかった肉体細胞が協力してくださっていることに初めて気付かせて頂き、改めて肉体細胞の隅々までが、私の修行にご協力くださっていることを知り、自分の肉体に対してなんと感謝が薄かったことだろうかと思いました。

 レポートを書くにあたり、丸山先生のご指導を中心に振り返らせて頂きました。

 丸山先生には、「貴方様は最初の病院のお医者の言葉に非常にとらわれておられました。私がそのことを指摘させて頂きますと、貴方様は心が落ち着かれ、その時、近くの病院に大変な名医がおられることが分かったと言って来られたのです」「一つや二つ問題が起きたからと言って、ガタガタと騒いではいけません。どっしりと心を落ち着けて、さて、病院は一体何処がいいだろうかと考えるだけの余裕が必要です」と仰せられたことを思い出させて頂き、私は「自分中心のとらわれの心」について心から反省させて頂きました。(1992年8月号『ひかり』誌掲載)

 あの時、病室の窓で拝した太陽様のお姿は今もつい昨日のことのように鮮明に目に焼き付いております。

 大宇宙大神霊・仏様、お見守りお導きくださり、誠に誠に勿体なく、有り難く、心より心より感謝をお捧げ申し上げます。

 丸山先生、二度にもわたり、お手紙でご指導くださり、また何度もお電話でご指導くださり、本当に本当に有り難うございました。お蔭様でガンが治りました。

 ところで私が入院しておりましたある日、主人の叔母、T.H様が赤いバラの花束を持ってお見舞いに来てくださいました。そのお礼にと、叔母に、偉大な主・高橋信次先生のご著書「心の発見(神理篇・科学篇・現証篇)」三部作をお送りさせて頂いたのがご縁の始まりでした。

 それから叔母は職場の人達に次々と、偉大な主・高橋信次先生のお話をさせて頂いていることを毎日のように私に知らせてくださるようになりました。その時、5年前に丸山先生が「大阪でもいつかこのような学修会が出来るように励んでください」と仰せられたご指導を思い出し、「ああ、そろそろその時期が来たのではなかろうか」と気付かせて頂いたのです。

 そしてその年1991年12月21日、主人と私と叔母の3人で、金沢の丸山先生のご自宅にお伺いさせて頂き、来年3月から大阪で学修会を開催させて頂きたく、丸山先生にお越しくださいますよう、お願いに上がらせて頂いたのです。

 この叔母は現在、北海道札幌市のある施設にお世話になっておられますが、この度、主人と共に叔母をお見舞いさせて頂きました。そして叔母と手を握り合い、あの世に還る道についてお話しさせて頂き、さらに、偉大な主のおことば「光の器を」「心行・祈願文」「健康祈願文」「心行三回」を上げさせて頂きますと、叔母はもうほとんど声も出せないのですが、それでも一生懸命、ずっと一緒に口を動かされ、「心行・祈願文」を唱えておられました。

 そして主人が叔母の手を握り、「有り難いご縁やったね。あの世に還ったら、光の天使様から『お前は一体何をして来たのか』と問われるそうですよ。その時、『私は甥夫婦と3人で、大阪で法の学修会を開いてくださるよう、金沢の丸山弘先生にお願いに上がりました』と、そう言うんですよ」と申しますと、叔母は涙を溜めて嬉しそうに目で笑い、手を握り返されました。

 あの時の私の病気は決して無駄ではなく、大阪地区学修会開設にあたり、自分の心をしっかりと確立するためと叔母とのご縁を戴くための入院であったのかと、今振り返りますと、つくづく思わせて頂いております。

 そして、丸山先生には大阪地区学修会開催にあたり次のようにご指導くださいました。

 『ひかり』誌1992年6月号20頁〜21頁より転載させて頂きます。

 「一般社会では、例えば結婚式を例として考えてみますと、何月何日結婚式と決まってしまうともう間違いなくその日がやって来て、結婚するのは間違いのないことだと考え、それを基準としてすべてのことを運び進めていきます。しかし、私たち法を学ぶ者としては、形としての日取りは一応決められますが、その日が、偉大な主から絶対にお与え頂くという確証はないのであります。如何なる人も皆平等に死に対して予告がないように、その日まで生きていることの保証はありません。実際に誰もが分かっていることは、今というこの一瞬の今、生きていることであります。その連続が今日一日であります。この1カ月でありました。この1年でありました……。

 『法につながる生活は、それは、ただ今をどう生きるかということである。ただ今何を行い、何を考えているか、ということである。それ以外に生きるという意味はない。ただ今は直ぐ過去になる。未来はまだ来ない。ただ今である。ただ今に自分は生きている。そのただ今の積重ねが一生である。そのただ今、生きているただ今を知ることが開眼である』(偉大な主・高橋信次先生のおことば)

 このたびの大阪・堺における学修会の開催も一応形としては3月8日として決められてはおりますが、実際、当日予定通りに開催出来る確証は何一つありません。その確証は他でもないお二人のお世話人様とこの私が、当日に向かって一秒一秒の時を、法によって正しく心を高め、自己確立を計る努力を積み上げた分だけ、その努力に相応した分だけ悦びとともに一歩一歩の確証と悦びが頂けるのであります。最低この3人の神の子が、大調和に到達し、その調和点が主の御心に適った時、初めてそこに3月8日という学修会がお与え頂けると思うのであります」(転載以上)

とご指導戴きました。

 私たちは大阪で学修会をと決まった時、4月からと予定させて頂きましたが、丸山先生には「開催すると決めたら早い方がいいです。明日はありません」とご指導戴き、急きょ、3月8日となりました。

 また、場所につきましては、堺市では交通の便利の良い「堺東」がよいと思い、「堺市民会館」と決めました。しかし、これは偶然に思いついたことではなく、すべてすべて深い深い意味の在る天上界のお導き、お計らいであったのでした。

 『ひかり』誌1992年4月号「『高橋信次先生の法を学ぶ会』発足に際して」15頁〜16頁より転載させて頂きます。

 ―「来る3月8日のことを考えていたら、初めて偉大な主・高橋信次先生のご講演をお聞きするために出かけたのが、いまから18年前の同じ日、3月8日であることを思い出しました。

 あの日からもう既に18年という歳月が流れ、いま不思議なご縁を戴き、大阪での第1回の学修会を開かせて頂こうとしております。しかも、主にはいまから21年前の1971年6月に、やはりこの地大阪・堺市(堺市民会館)において、西では初めてのご講演をされたのであります。勿体ないことに、僅か80人の人たちに対して、法をお説きになられたのであります。何故に、偉大な主もこの地をお選びになられたのかは、知る由もありませんが、この度のことを併せ考えるとき、人知を超えた天の大いなるお計らいを感謝せずにはおれません。以上の二つのことを考えて見ても、この度の学修会はただごとではないと思うのでございます」(転載以上)

 主人と私はただ何気なく決めさせて頂いた場所でしたが、畏れ多くも偉大な主には、1971年6月に、この「堺市民会館」におきまして、東京を離れて西では初めてのご講演会を開催された場所だったのでした。

 さらに丸山先生には次のようにご指導くださっておられます。

 『ひかり』誌1992年4月号16頁〜17頁「『高橋信次先生の法を学ぶ会』発足に際して」より転載させて頂きます。

 ―「しかも、まだこの他にも、私たちが長年に亘って学修してきた法が正しかったのか、それとも、間違っていたのか、という確証も天から示される時でもあるのであります。このようにこの日は、この会場を縁として天と地が最も近づく時でもあると思います。そして、主が親しく降臨され、説かれた法がこの日を縁として、地球の果てまでも広がっていくスタートの日でもあります。もし、この日計画通りに開催されたとしたら、私たちグループ全員の感激と感動は筆舌に尽くしがたいものとなることでありましょう。

*   *   *   *

 「私が西に向かって進んだように、そなたたちもまた、西に向かって進め、地の果てまでも」ここに神理学修会「ほくりく」が発足14年にして一大転機を頂いたのであります。いよいよ心して法灯を絶やす事なく、正しく次世代に伝えていかなければならないと思います。

 この目出度いスタートを記念して、来る4月1日より、これまで神理学修会「ほくりく」という名称を、新たに、「高橋信次先生の法を学ぶ会」と命名することにいたしました。さらには、月刊誌としてこれまでは『ほくりく』を発刊いたしておりましたが、来る4月1日からは「高橋信次先生の法を学ぶ会」の月刊誌として『ひかり』を発刊することにいたしました。

 このたびの大阪における学修会を縁としまして、これまでの『ほくりく』という小さな枠から抜け出て、国内はもとより、広く全世界に向けて法を伝道させて頂くことにいたしました。既に伝道部では、第1段階として、世界各国の図書館に対して、主のご著書の寄贈事業を進めております。なお、国内に向けてのものは、既に日本海岸地帯の各施設を始め図書館、大学等に対しては既に終わっていますので、今後は、太平洋岸地帯に向けての事業を促進したいと考えております。主のお導きのままに、伝道活動もまた活発に展開していきたいと計画いたしております。何とぞ各位のご支援ご協力を切にお願いいたします。

 このような大いなるお計らいによるご下命を頂き、我ら会員一同、益々熱き心をいやがうえにも熱くし、仏国土建設をめざし、主の付託にお応えしようではありませんか。そして、この悠久の大宇宙の一角であるそれぞれの地において、このようにお会い出来る縁生を悦びあい、偉大なる神と主を讃え、今生をまっとうしようではありませんか」(転載以上)―

と今も私たちに熱く熱く叫んでおられます。

 今この原稿を紐解かせて頂きます時、3月8日を縁として、私の人生は180度変わりました。

 自分という我を無くし、あらゆる諸現象を通して、神仏様は私たちに一体今何をせよと仰せられているのだろうか、と常に考えさせて頂くという生き方をお教え頂きました。神仏様にお仕えさせて頂くという生き方、そして今まで体験させて頂いたこともないような、人知をはるかにはるかに超えた、偉大な偉大な神仏様のお導きとお計らいの世界を体験させて頂くこととなりました。

 第1回大阪地区学修会の発足に向けて、私たちは只何も分からず、79日間の命懸けのご精進を始められました丸山弘先生の後に只只必死の思いで付いて行きました。丸山先生が私たちの先頭に立って熱く熱く旗を振ってくださり、どんどん道を切り開いて進んでくださる、その法に対する尽きることのない情熱のお姿にどれほど励まされ、勇気を戴き、今日まで進んで来られたことでしょうか。あの日々が本当に今、熱く熱く心の中に蘇ってまいりました。

 私たちは今、東京地区、大阪地区の心在る心熱き同志の方々と共に、東北地方の病院、図書館、専門学校に続いて、北海道にもご著書の寄贈を進めさせて頂いております。東北や北海道の主立った公立の図書館には殆どすべて偉大な主のご著書が置かれてあり、足りないご著書をご希望くださる所が殆どです。

 あそこにもここにも、すでに20数年も前から、丸山先生には偉大な主のご著書をご寄贈しておられたことを改めて分からせて頂きました。

 最後に、再び丸山先生のお書きになられました『ひかり』誌1992年4月号「『高橋信次先生の法を学ぶ会』発足に際して」6頁より転載させて頂きます。

 ―「たしか昨年の11月の初め頃からだったと思いますが、来年は大変な年になる、という心のひびきを感じました。しかし、自分の心の中での思いであって確証のないこと故、自分の心の中にしまっておりました。12月に入ってから、自分の精進のことは今年で終わりにして、新しい年からは伝道の悦びを語り合う年にしましょう。天上界では非常に急いでおられるように思えてなりません、とお話しをさせて頂きました。そして、月刊誌には実践目標として「熱き心をいやがうえにも熱くしましょう」「一人でも多くの心在る人に悦びを伝えましょう」と呼びかけさせて頂きました」(転載以上)―

 この時のこのお呼びかけは、丸山先生が今の私に直接お導きくださったものと深く心に刻ませて頂きました。

 ところで2010年8月5日、私は45年間患っておりました右膝を治して頂きました。

 それから半年後の、2011年3月5日、私は骨に靭帯を固定するため埋め込んでいたボルトを抜く手術の為、再び入院していました。

 ある日、病院の廊下の椅子で『ひかり』誌2003年1月号72頁「編集室から」を拝読しておりました時、本当にはっとしてしまいました。

 『ひかり』誌2003年1月号72頁より転載させて頂きます。

 ―ある日、ガンで患っておられる方の癒しをお願いしたとき「癒しを求める方を次々誰彼構わず抱きしめている。それは慈悲魔であり、『慈悲も過ぎれば魔に通ずる』と言うことであり正しくない。難病の殆どは、肉体を中心とした思い、行いをして来たがため、その意識が病んでいる。その原因は、ご著書の拝読が十分でないため、定められた学修を実践していないため、指導されたことを参考にしていることが主たる原因である」

 また、「いくら肉体を手術などで繕っても、永遠の生命である意識が病んでいる原因により、肉体と言う乗り舟が痛んでいることを知ることによって、先ず第一に、意識が病んでいる原因を究明し反省することこそ、現在只今最も大事な急務ではなかろうか」とお導き頂きました。(転載以上)―

と書かれてあり、「これは自分のことだ!」と思いました。私は何度も何度も病気を通して、心の間違いをお教え頂きながら、まだまだ肉体中心の考え方をしている! 意識を正すことよりも、肉体の病気を何とか治そうと執着している! とはっと気付かせて頂きました。

 私も主人も、意識を正す、意識を癒すことをご指導戴くことにより、神仏様の偉大な「御ひかり」を戴くことが出来、難病を癒して戴きました証人の一人でございます。この事にもっともっと感謝をお捧げし、自分の意識を法によってもっともっと厳しく正していかなければならないと、初心に返り、今思わせて頂いております。

 来る3月8日を正法の新年の日とさせて頂き、来年からは、一人でも多くのご縁在る方々に、この法によってお救い戴いた悦びをもっともっと一人でも多くの方に叫んでまいりたいと、大阪地区学修会発足20周年に際し、我が心に堅くお誓いさせて頂いております。

 大宇宙大神霊・仏様、偉大な主・高橋信次先生、偉大なイエス様、今日までお導き、お計らいくださり、心より心より有り難く感謝をお捧げ申し上げます。

 本当に有り難うございました。





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