「思いを正す」


名古屋地区 C.I

 名古屋地区で取り組ませて頂いておりますテーマ、『思いを正す』についてレポートを送らせて頂きました。

 私が取り組ませて頂いておりますことは、自分をなくすこと、そして謙虚になることです。「私が、私こそ、私だけが……」の思いと「増上慢、増長慢」の思いがあり、これが私の大きな欠点ではなかろうかと思います。この二つの欠点は、互いにつながって影響し合い、私の日々の生活の中に顔を出してきます。増上慢の意味を調べてみますと、「自惚れ、実力もないのに自己を過信して思いあがること」、また増長慢は、「つけあがって高慢になること」と書かれてありました。私は、仕事や家庭において、他人の評価を気にし、「すごいね」と言われることが大好きです。また、褒められると有頂天になります。さらに、「あなた達とは違うのよ」と、相手を裁いてしまいます。この欠点は根強く私の中にあり、いつも出ていたと思うのですが、これまでは気付かないうちに過ぎてしまうことが多かったように思います。

 2カ月前、行政の機関である市立病院、包括支援センターとの人間関係で、またこの欠点と真剣に向き合うことになりました。毎日自分なりに精いっぱい仕事をしていると思っていた私は、これらの機関から批判を受けて落ち込みました。特に包括支援センター長様は、指導という大義名分で嫌がらせのようなことを言ってこられました。私は落ち込みながら、何故そのように言われるのか少しずつ反省を始めました。

 そして、去る6月25日の「感謝と誓いの会」で九州の法友様とお話をさせて頂きました時、自分が何を反省すべきかに気付かせて頂きました。法友様は、「職場で毒を食べてしまい、心と体を壊してしまいました。でも、その職場の人の態度(上からの目線で、偉そうにキツイ言い方でものを言われる)は、私が家族にしていたことだと気付かせて頂きました。職場の人の態度は、自分の反省の機会でした」と教えてくださったのです。そしてセンター長様がされていた私への嫌がらせは、私が仕事の仲間や家族に対して行っていたことと同じであった、ということを、その時ようやく分からせて頂いたのです。センター長様のお姿は、私自身の姿でした。上から強い口調で話す等同じことをしていました。「私の方が仕事が出来る」「人望がある」「あなた達とは違う」等々の増上慢の思いも同じでした。

 先日の研修会でも、あるご質問に手を挙げたのが私一人でした。そのことで私は、「やはり私だけだ、すごい!」と、思い上がってしまいました。これらのことから、私の一番大きな欠点がまだまだ根強く残っていることを分からせて頂きました。

 以前の反省で、この性格は、幼少の頃、家が貧しく、同級生に勉強や遊びでは絶対に負けたくないとの思いで、肩肘を張って頑張っていたから(もともと負けず嫌いですが)、というところから来ているのではないか、と思わせて頂きましたが、私が頑張って勉強し、良い成績をとると先生や母、祖母、近所の人が褒めてくれるのが嬉しく、余計に頑張る子供でした。そのように甘やかされて育った私は、とても我儘な性格になりました。今までもこの性格を直す努力をしていたのですが……まだまだ直っていませんでした。

 どうすれば直せるのだろう……と試行錯誤している時、有り難くも、偉大な主・高橋信次先生のお導きを戴くことが出来ました。

 偉大な主・高橋信次先生のご著書『心眼を開く』の98頁、勇気

 「人から八正道は難しい、反省すると自分の醜悪さが浮かび出て、我ながら自分に愛想がつきる、しょせん自分は八正道の一つも実行出来ないし、挫折感のみが襲って来る、とよくいわれます。

 私も最初はそうでした。人の事より自分を中心にものを考え、行動してきました。しかし私は、自分を捨てることによって苦楽の淵から離れることが出来ました。

 難しいとか、挫折感は、性急な心がそうさせるのだし、それは自分というものが心の中にドッカと腰をすえているためであり、そうした自分が少しでも無くなってくると、次第に心が軽くなるものです。

 偽我の自分を少しでも無くすためには、正道の中身を理解し、実践してみることです。そうすると、ものの見方、考え方、行動が八正道に適ったそれになってきます。

 八正道はまず反省から始まるが、反省の仕方は客観的立場から自分をながめ、相手を見ることです。そうして自分の欠点が浮き彫りされるようでなければ駄目なのです。自分に愛想がつきて、そこで自分を捨てたときに、神の光が入ってきます。ところがここで、なかなか自分が捨てられません。六根から抜けられないのです。そこで私は勇気を持って努力しなさいといっているのです。

 さてそこで、勇気はどうすれば出るのでしょうか。(中略させて頂きます)

 勇気は虚勢や見栄、外見を気にしているときは出ません。偽我のない裸の自分に立ち返ったときに、自然に湧き出るものです」

 私は、今、同じ欠点を繰り返している自分に愛想がつき、こんな自分は嫌だと思っています。偉大な主・高橋信次先生には、次は自分を捨てることだとお導きくださっていますが、これがとても難しいのです。

 そんな時、『ひかり』誌2009年3月号47頁の伝道だよりの中で、丸山先生の、「私は、偉大な主・高橋信次先生にお目にかからせて頂き、頂いた課題の一つに、『自分をなくする』という課題がありました。『自分をなくする』ということは、本当に何か人のために自分を捧げるということになろうかと思いますが、それもなかなか自分があって難しいものです。(中略させて頂きます)しかし私は、各地の学修会でいろいろな方にお目にかからせて頂いて、いろいろな方のご体験を聞かせて頂くことにより、また自分も学ばせて頂ける、そのような思いで出席させて頂いております。でも自分をなくするというのは本当に難しいものですね。また教えてください」とのお話を戴き、丸山先生のとても謙虚なお言葉を拝読させて頂いて、ただただ驚き、感激感動させて頂きました。

 結局、「自分をなくす」と「謙虚」は、一つであり、虚勢や見栄、外見を気にしていると、欠点を直す勇気が出ないことを分からせて頂きました。そして、「自分をなくす」とは、自分のことよりも人のために自分を捧げられるようになることだと教えて頂きました。また、勉強会等に参加させて頂き、人様のお話を聞かせて頂いて様々な気付きを頂けるように、自分の体験をお話しさせて頂くことで、何か人様のお役に立てることが出来るかもしれない……ということにも気付かせて頂きました。しかし、これは頭で考えていることだと思います。ここからどのように頑張るか? 偉大な主・高橋信次先生のお導きは、「正道の中身を理解し」です。理解するためには、ご著書を拝読させて頂き、しっかり学ばせて頂くことです。そして、自分の思ったこと、行ったことを一つ一つ点検すること以外になく、気付いた時に「今度こそしないようにしよう」、と実践努力しなければ何時まで経っても直すことが出来ません。やっと今、その精進をさせて頂いているところです。

 今は、まだ、欠点が出てしまってから、「ああ、また同じことをしてしまった〜」の繰り返しですが、これまではこのことに気付かせて頂けることもなかったのですから、私にとっては進歩だと思わせて頂いています。

 『ひかり』誌、2009年3月号55頁の伝道だよりで、丸山先生には、「自分の欠点と闘うことは楽しみなのです。しかし欠点に負けたら不愉快です。自分の欠点に一つでも克てるようになれば、生き生きとした奥様になれます」と、ご指導くださっておられました。私は今まさに、欠点と闘っているところです。

 そのセンター長様に対する最初の思いは批判でした。それから「ああ、この方は、このような言い方しか出来ない可哀そうな方なのだ」という憐れみになりました。憐れみは本当の慈悲ではないと思いながら、反省を続けていました。少し前から、その方に対して、「健康祈願文」を上げさせて頂き、その方の平安を心から祈らせて頂くことが出来るようにならせて頂きました。今は、愛の思いだと思わせて頂いております。センター長様のお蔭様で、またこの欠点と向き合い、直す機会をお与え頂くことが出来ました。これからも、この欠点と闘いながら楽しく精進させて頂きます。

 このような思い方が出来るようにならせて頂けたのは、正法を学ばせて頂いているからこそであります。

 大宇宙大神霊・仏様、有り難うございます。

 偉大な主・高橋信次先生、お導き、お見守りを戴き、心から感謝申し上げます。





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