『ザビエルさんこんにちは』を拝見させて頂いて

大阪地区 K.H

 先日は「芸術新潮」1999年2月号をご紹介頂きまして有り難うございました。早速、大阪中央図書館へ出向き、「芸術新潮」の「ザビエルさん、こんにちは」のページをコピーさせて頂きました。その後、古本を求め、また近くの図書館で「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」をお借りして読ませて頂きました。

 なぜ、私がこれほどまでにザビエル神父様に惹かれるのか分かりませんが、マカオでザビエル神父様の彫像と対面させて頂いた瞬間から、雷に打たれたように身動きが取れなくなりました。なぜか、丸山先生のお姿が浮かんで離れなかったのです。

 スペイン・バスク地方のザビエル城で貴族の子としてお生まれになった、聖フランシスコ・ザビエル神父様の、神の僕としてのご生涯に大変興味を覚えました。お父様の死後、逆境に耐えながら、聖職者となる決意を固められたのです。この道こそがザビエル家の復興につながるものと思われたからでした。野心に燃えたザビエル様でしたが、学都パリで勉学の間、終生の友を得られることになるのです。

 はかない世の名声や地位への望みは消えうせ、貧しいキリスト様に従いたいと熱望するようになっていかれました。「たとえ、人が全世界を手に入れても、自分の魂を失ったらそれが一体何になるんだ」、福音書の言葉を持って語りかけた友人ロヨラの言葉により、その信仰に惹かれていかれ、ザビエル様は回心されたそうです。

 丸山先生におかれましては、事業を起こさねばと中学生の頃から思っておられたとお伺いいたしました。大企業を辞められ、野心に燃えて事業をスタートされました。丸山先生は、初めて、偉大な主・高橋信次先生にお目にかかられた折「あなたは二つの会社をやっているけれども、一日も早くその会社をたたんで私の言ったとおりにしなさい」とのご指導を頂き、天上界のお導き、お計らい、そしてご協力を頂かれ、世俗の生活を精算し、ご自分の行く道をご決心されたとのことでした。

 丸山先生は、「この人生における、行く道はこの世に生まれた時から既に決まっている」とおっしゃっておられますが、ザビエル様と丸山先生の聖人への道のりにあまりにも共通点のあることを感じさせて頂きました。

 共通点といえば、もう一つ興味深いことを発見いたしました。弘法大師様は、「帰国後は、御名の通りに弘く(広く)法をお伝えするに当たり、飢えや病気で苦しむ多くの衆生に、ご自分を捧げられたことが資料に記録されています。特にそれまでの貴族などの上層部しか学べなかった当時、あの『いろは歌』を始め、月火水木金土等の曜日を考えられるなど、庶民にも分かりやすく読み書き等を教えられ……」と2008年1月号の『ひかり』誌にM.Y様がお書きになっておられます。

 ザビエル様は、ゴアに止まっていないで、インドの南岸の方にも宣教活動に出かけられ、そこで読み書きが出来ない人達のために基本的なお祈りや教理を現地の言葉に翻訳してメロディーをつけて教えられたそうです。覚えた子供達が、それぞれの家に帰って歌うと、お父様やお母様が覚えられるという具合に……。

 弘法大師様もザビエル様も、とりわけ子供や無学の人に福音を教え、諭し、人々の実生活の面でも進歩するように、教理が広まるようにと努められたようです。日常生活から切り離された社会に背を向けた生活を人々にすすめることではなく、人間形成の中心に教理が活かされ、自己の浄化によって、人々への奉仕、人々への愛の目覚めを智恵と工夫と努力によって導いていかれたようです。

 ザビエル様は、イエズス会イグナチオ様の突然の申し出を何の躊躇もなく「私はここにおります」と一言の返事で受け容れられ、出発までの数時間で準備され、粗末なスターンを身につけ、職務日誌だけを手にして生涯二度と見ることのないローマを後にアジアへと旅立っていかれたそうです。

 全くキリスト教を知らぬ、新たに出会ったその社会、文化、伝統の中でキリスト教をいかに適応させ、活かしていくか、迫害を受けながら大変なご苦労をされ、取り組んでいかれました。

 神と人々への愛に生き、イエス様の伴侶でなければならないという、中途半端を許さぬ徹底した霊操(霊を鍛錬する)の人であり、それが人間教育の柱であり、奉仕の原動力となっていたようです。

 日本では、鹿児島、平戸、豊後、山口、そして京都までも行かれたそうです。

 ザビエル様は、鹿児島でのご経験から、この国の人々は最高の民であり、日本人より優れた人々を見つけられない、と日本人の資質を高く評価されたそうです。この極東の地に理想の王国、神の国を樹立することが鹿児島での思いと願い、祈りであったそうです。

 ザビエル様は、鹿児島で長者様の娘様の命を蘇らせたという奇跡が伝えられていますが、同じ鹿児島で、T.N様には、丸山先生のお祈りによって蘇られるという奇跡を頂かれました。

 私達は、この日本に出させて頂いたことを感謝し、ザビエル様のご遺志をよく心に刻んで、神の王国の礎として自分の使命を果たしていかねばならないと思わせて頂きました。

 ザビエル様は、ご存命中にたくさんのお手紙をお書きになられ、それが教会関係者だけでなく、一般の信者への説教に引用されることもあり、ザビエル様の業績が知られるようになり、またそれがインド、日本、また新大陸への情熱を高める一因になったようです。その膨大なお手紙には一貫して、主なる神への愛の為、大きな恩義の為、傲慢を戒め、謙遜の修行をたゆむことなく励むことが霊的に進歩を遂げることであると説かれてありました。

 また、私の一番の関心事は「ザビエル様のご遺体が腐らずに在る」ということでした。そのご遺体は、東洋布教の拠点であるインドのゴアに今も銀の柩に入れられ、安置されています。

 写真でそのお姿を拝見させて頂きまして、その尊厳さのあまり言葉がありませんでした。これは正しいキリスト教を説き、宣教師としてご立派な生き方をされた証しであり、神仏様の祝福を頂かれた現証に他ならないと思わせて頂きました。畏敬の念で一杯でございました。

 今でも東洋の使徒として世界中に知られ、尊敬されておられるのは、その誠実な生き方が共感を得たからだと資料にありました。非常に現実的で、狭い教会の中の説教や聖書の世界だけで生きているのではない、視野の広い人であることを伺わせ、人間味のある温かいお人柄に私は大変魅力を感じさせて頂きました。

 偉大な主・高橋信次先生には、かつて丸山先生に対しまして、「貴方は今、行っているそのままでよいから、他のどの講師の真似もしてはいけない。自分の思うとおりにやりなさい」と仰せられ、また、イエス様には「貴方は北陸で重い責任を持っております。貴方が伝道していく中で、行く手に山があるときは、山を取りのぞこう、あの広漠たる海に橋をかけなければならないときは、橋をかけよう」とおっしゃられました。

 「一体この私は何者なんだろうか」と、丸山先生には考え続けてこられたとお伺いしました。「金沢に大物が出ている……」丸山先生とは一体どなた様なのであろうか。「自分の思う通りでよい」と、偉大な主がおっしゃられたのはなぜなのだろうか、と思いました。

 本当の光の天使は、自分から光の天使だとは名乗ることは絶対にしない。人々がその人の説くところと行為を見て自然に光の天使であることを認めていくのであると、偉大な主にはお導き頂いております。

 丸山先生は、イエス様の時代も、インドのお釈迦様の時代も、正法伝道の為に大変ご尽力されたお方であり、また、その後、中国でもご活躍され、日本にお生まれになられたときは、日本から派遣されて中国の五台山でご修行され、日本に広く法を伝えられた方であられたことが、だんだんと明らかになってまいりまして、さらに今回、ザビエル様のご生涯に触れさせて頂き、偉大な主が、丸山先生に地球全域に法を広めるようにとお託しになられた、その真意を心より納得させて頂くことが出来ました。「私は苦節千年の魂です」とおっしゃられました、丸山先生のお言葉を思い出し、幾千年の時を超えた、偉大な魂のお姿に感涙いたしました。

 そして、信念の人、ザビエル神父様の生き方に大変共感と尊敬の念を持たせて頂きました。何か心の中で懐かしく思わせて頂き、私の心を、愛や悦びや感謝で満たして頂きました。畏れ多くも、偉大な主には、常に天上界よりお見守りくださって、怠惰な私の心を奮い立たせてくださったのだと思わせて頂きました。

 私は若い頃から、お釈迦様やイエス様のお話に大変興味がありましたが、しかし、特定の宗教に所属する気持ちは全くありませんでした。それは真実のものは一つしかないと思っていたからでございます。

 思いのままに、私が今ここにおらせて頂いているということは、信じられないぐらいに光栄なことであります。もっと全力で頑張らねばという気持ちがふつふつと湧いてまいります。

 親戚の人やまた共通の知人の方に、二人で協力してこの偉大な法をお伝えしていこう、とM.I様と話し合いました。天と約束してきたことを忘れてはならない、世界伝道のお手伝いに心を尽くして、天にお返ししなければならない、と決意を新たにさせて頂きました。

   (大阪府豊中市・主婦)





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