現代医学から見た正法 
(月刊「ひかり」誌2006年12月号より)

I.K 
   

 私は日本の熊本県にある診療所で内科医として働いている者です。2005年8月に偉大な主・高橋信次先生が著された「心の発見」というご著書に出会い、深く感銘を受けました。偉大な主・高橋信次先生は、10歳の頃から原因不明のご病気を縁として、肉体と心について研究され、41歳の時に神理を悟られました。全国各地でご講演をされ、宇宙の真理である正法を説かれました。また、科学者でもあり、電子部品の研究をされ、電気会社の社長として会社経営をされていました。

 以来私は妻と共に、偉大な主・高橋信次先生が説かれましたみ教えを丸山弘先生のご指導のもとで学ばせて頂いております。丸山弘先生は偉大な主・高橋信次先生が御存命中に直接ご指導を受けられ、以後30年以上に亘って、無償で、正法を正しく、多くの人にお伝えになっておられる方です。現在「高橋信次先生の法を学ぶ会」を主宰されており、これまで会員の方の中には、丸山弘先生のお導きによる、正法による癒しの現象を頂かれた方が数多くいらっしゃいます。

 私は日々医師として診療を行っている中で、現代医学に基づいた診療及び治療によって病状が改善する方がいらっしゃる一方で、現代医学の力をもってしても病状が良くならない方も少なからずおられることに自分の無力さを痛感することがあります。特に患者さんの気持ちの問題、精神的な問題に対しては、ほとんど根本的な解決策を提供出来ないのが現状です。しかし、偉大な主・高橋信次先生のみ教えを学ばせて頂くことによって、その原因は、「心、意識」という視点が欠落していたからだということに気付かせて頂きました。最も大切な「心、意識」に目を向けてこそ本当の解決策が見いだせることを教えて頂きました。

 そして私はこの、意識による働きかけによって実際に病気が治癒するという事実を、丸山弘先生のお導きにより目の当たりに見せて頂くことが出来ました。

 それは私の父(妻の父)に起きたことです。「『私は実際に自分の目で見た』この事実を一人でも多くの人にお伝えしなければならない」と思い、この文章を書かせて頂きました。

 次に父に癒しの現象を頂いた経緯について述べさせて頂きます。

 父は1927年1月27日生まれで、現在79歳になります。13歳の時、扁桃炎に罹患したため心臓の弁に異常をきたし、以来心臓に血栓が出来易い状態でした。

 1989年(62歳)血栓が詰まって脳梗塞となり、左半身不随となりました。その後はほとんど寝たきりで、一人では立ち上がれない状態でした。

 2001年(74歳)に心不全を発症したため、ペースメーカー植込み手術を受けました。

 2003年(76歳)夏に前立腺肥大を発症し、レーザーによる肥大部分の切除手術を受けました。それ以後西洋薬を服用してきましたが、副作用が強く現れたため、途中で服用を止めていました。

 2006年7月7日から再び前立腺が腫脹し、排尿困難が続き、排尿時痛が強く、尿量が著しく減少しました。一日中尿意を感じるため、夜も度々目覚め、熟睡出来ない状態でした。常に膀胱の部分に圧迫感と鈍痛を感じ、苦しんでおりました。

 7月11日、かかりつけ医の診察の結果レーザー手術を受ける必要があると判断され、以前レーザー手術を受けた熊本大学附属病院に転送されました。しかし、附属病院の主治医の判断は、「今回は、前回よりも前立腺の腫脹が強く、根本的な手術を受けなければ改善の見込みはないが、高齢であるためその手術を受けるには体力が持つかどうかという心配がある。また、一度脳梗塞を起こしているため、手術中に脳梗塞を起こす可能性が高いので、手術はしない方がいい。しばらく薬で様子をみましょう」との事でした。従って入院はせず、導尿により排尿してもらい帰宅しました。主治医からは、今後も排尿困難な状態が続くので、家族の者が導尿の処置が出来るようになることが望ましいと言われました。しかし、父は、細くなった尿道に尿がじわじわ流れるだけでも激痛を感じる状態でしたので、その尿道に管を通すと言うことは、家族としては痛ましくて出来なかったようです。処方された薬をその日の夜から服用しましたが、排尿時痛はあまり軽減せず、尿量も増加しませんでした。夜は尿意のため何度も目覚め、熟睡出来ない状態が続きました。

 このような状態の中にあった父に奇跡の現象が起きました。

 7月17日 午後9:00 丸山弘先生より金沢から電話を頂きました。父を癒してくださるとのことでした。私には初めてのことでしたので、何をどうしたらいいのか全く分からないまま、先生が言われることに従いました。まず最初に私が左手に受話器を持ち、右手を父の患部(前立腺)の上にかざし、先生の言葉を受話器を通してお聞きしました。次に父が右手に受話器を持ち、先生の言葉をお聞きました。最後にもう一度私が左手に受話器を持ち、右手を父の患部(前立腺)の上にかざし、先生の言葉を受話器を通してお聞きしました。この間15分間くらいでした。そしてある植物の種を一日小さじ一杯と珈琲一杯を飲むようにとの指示を頂きました。この夜より病院で処方された薬の服用は中止しました。丸山弘先生からのお電話の後、父はすぐにぐっすりと眠りました。

 そして次の日(7月18日)の朝、信じられないことが起きました。夜間蓄尿量が以前の約4倍の1200mlあったのです。排尿時痛が劇的に和らぎ、尿の色が改善しました。また、夜間覚醒が二回と少なくなり、明け方の排尿量が増加しました。

 その後も日に日に改善し、排尿時痛はなくなり、尿の勢いが増し、尿の色も透明となりました。一週間後には、発病前より遙かに良い状態にまで回復しました。本当に何十年ぶりで、若いときのように勢いよく、それも明け方にまとまって尿が出るようになったと言っておりました。膀胱の辺りの違和感がなくなり、父は気分が爽快になり、体も軽くなり、ベッドから軽く立ち上がれるようにまでなりました。父は以前レーザー手術を受けた経験がありますので、今回、自分がこんなに急速に回復することを不思議がり、夢のようだとしきりに言っておりました。以前レーザー手術を受けた時は、レーザーにより肥大部分を焼くという手術のため、術後は真っ赤な血尿で痛みもあり、七週間ほどは導尿状態でした。今回は、服薬や導尿は一切行っておりません。丸山弘先生から一回お電話を頂いたことと、一日に一さじの植物の種と珈琲一杯を一週間飲んだこと、まったくこれだけです。医学的には、服薬もせず、導尿も行わず、一夜にしてこれ程症状が改善するということはとても考えられないことだと思います。ただの偶然だと言われる方もおられるかもしれません。

 しかし、これは決して偶然などではなく、大きな働きかけがあったのです。

 丸山弘先生は電話を通して、父の肉体細胞の意識に、復活するように語りかけてくださったそうです。偉大な主・高橋信次先生は「肉体の支配者は己の意識なり」とお教えくださっています。肉体だけに注目すると、確かに何の働きかけもしていないのですが、肉体を支配している意識に丸山弘先生が電話を通して働きかけてくださったのです。その意識に対する働きかけによって、肉体が癒されるという現象が現れたのです。私も現代医学を学びましたので、現代医学の視点で見れば、「意識に働きかけるだけで、肉体が癒されるということはあり得ない」ということになると思います。

 しかし今回のことは『紛れもない事実』であり、現実に私の目の前で起きたことです。とすると、現代医学の視点ではありえないのであれば、それは『現代医学でも未だ解明出来ていないことがある』のだということを謙虚に受け止めなければならないのではないかと思うのです。私も以前は、そんなことが起こりえるなどとは想像したこともありませんでした。しかし、偉大な主・高橋信次先生は、「人間は肉体が全てではない、意識、心が大切である。肉体は有限であるが、意識は永遠に生き通しの生命である。目に見えなくても電波が現実に存在するように、目に見える世界というのはごく一部に過ぎない」とお導きくださっています。私は偉大な主・高橋信次先生のみ教えを学ばせて頂き、科学的に正しいとされることが唯一正しいとすることは間違っているということに気付かせて頂きました。

 人間の肉体の構造や働きについては科学的解明が進んでおり、その精緻さ、見事さは驚嘆すべきものであることは周知の事実であります。しかし、その見事な働きを生み出している根本の力とは一体何かという疑問に対しては現在の科学は答えてはくれません。それを教えてくださっているのが偉大な主・高橋信次先生です。偉大な主はご著書の中でこのように教えてくださっています。「生命の神秘、人間は、誰でもこの謎に興味を持つだろう。しかし、私達がこのことを唯物的な考えで追求しようとしても、永遠に解くことはできないだろう。なぜなら、それは、唯物的な次元とかけ離れた世界に存在するからである」(『心の発見』現証篇230頁より抜粋させて頂きました)「人間は、肉体的な作用と精神的な作用という相関関係によって、存在しているということは間違いはないのだ。 精神作用は、”魂”の動きで、全く次元が違った世界であり、肉体的な次元と連結されているのである。たとえば、三次元の物質的な世界と、三次元の一面である二次元の世界が共存しているように、それは、四次元の世界の、三次元的な立体の世界といえるだろう」(『心の発見』現証篇233頁より抜粋させて頂きました)

 父に頂いた奇跡はさらに続きました。8月15日、急に39.5℃の発熱があり、悪寒で震えが出現しました。丸山弘先生が再び電話で父の意識に話しかけてくださったところ、父はすぐに解熱し、元気になりました。さらに丸山弘先生は麻痺している左側の足の意識に対しても復活するように話しかけ、光を入れてくださいました。すると、今まで左足に触っても麻痺のため何も感じなかったのですが、強く触ると、感覚が戻ってきたのか「痛い!」と言うようになりました。

 それから数日は元気に過ごしましたが、8月20日からまた高熱が始まりました。さらに食欲が無く、そして大量の便が出るという状態でした。

 8月26日に丸山弘先生が再度父の意識に話しかけてくださり、今回は五臓六腑に対しても復活するように話しかけてくださいました。

 その日は食欲が出たものの、次の日からまた食欲がなくなり、氷をなめるだけという状態が続きました。発熱も続きました。しかし不思議なことに、本人は気分がいいのです。そしてずっと何も食べていないのに便が日に何度も大量に出るのです。何も食べていないにもかかわらず、毎日多量の排便があるのは、腸の細胞意識が復活して腸の働きが活発になっているとしか考えられないことでした。その状態が一週間ほど続いたころ、父の顔の皮膚が艶やかになり、若返ったように見えました。

 父自身は一週間も何も食べていないのに、空腹感もあまりなく、意識もはっきりとして、気分爽快だと言っておりました。

 9月2日から食欲が出始め、お茶やスープを飲み、おかゆも食べるようになりました。その後徐々に食欲も普通に戻り、通常の食事が摂れるようになりました。

 結局父は10日間ほど少量の氷と果汁だけで過ごしました。父が病院に入院するのを拒否したため、点滴や服薬などは一切しておりません。周りの心配をよそに、父はほとんど絶食状態であるにもかかわらず、気分良く過ごしました。

 そして10日間の間毎日、一日に4〜5回排便がありました。どこにこんなに大量の便が溜まっていたのだろうと思う程でした。最後にはタールのような便が出ました。以前ある病院でレントゲンを受けたときに、腸壁になにやらこびりついている陰が写っており、医師から「腸に便がこびりついているのです」と言われたことがあるそうです。その長年に亘って腸にこびりついていた便が出てきたのかもしれません。また、排便時の痛みも全くありませんでした。このようなことは父が寝たきりになって17年間で初めてのことであり、本人も周りの者も全く不思議としか思えませんでした。

 このように、私は父を通して、そして丸山弘先生のお導きによって、正法による癒しの現象を見せて頂くことが出来ました。私はこのような癒しこそ真の医療ではないかと強く感じました。今の医療は、現代医学を中心にしていますので、私が申し上げたことに対して反論を受けるかもしれません。しかし、医療とは病んでいる人を癒して差し上げることだと信じております。私が今回見せて頂いた正法による癒しは、肉体には何も傷を付けることなく、苦痛もなく、また薬も飲むことすらないものでした。そして父は治癒しました。癒されました。

 これが医療でなくてなんでしょう。

 これこそ真の医療ではないでしょうか。この事実を目の当たりにして、これから目指す医療のあり方が、ここに示されているのではないかと、強く感じております。

(熊本県合志市・医師)



【ご著書からの抜粋】

この度、天から頂きました癒しの現証は、今後医学が、肉体を中心とした医学ではなく、神の光を頂いた意識を中心とした医学へと変わっていくということをお示しになられたように思います。

偉大な主・高橋信次先生には、ご著書の中で、これからの医学が進むべき道について、数多くお導きくださっておられます。意識の医学、これこそが人類が進むべき、新しい医学の道ではないでしょうか。

ご著書の中から、「肉体の支配者は意識であること」「肉体細胞にも意識があること」「真の医学とは」ということについてお導き頂いている箇所を抜粋させて頂きました。


「心の発見 神理篇」10頁15行目〜12頁7行目より抜粋させて頂きました

細胞はまた細胞としての核分裂により、生物としての機能を発揮し、一つの体を構成して生命を保っている。私達の五体は、約60兆からなる細胞によって成立しているのだが、細胞は各機能に適応して諸器管を作っている。肉体はそうして大自然の相互関係の中で保存されている。

そしてその子孫、種族保存の本能も、神仏から与えられているのだ。

私達は、細胞集団によって構成されているこうした肉体を考えたとき、それではこの物質の支配者は何かと考え、それが在ると思い至らざるを得ない。

物質とエネルギーの共存不二の姿が物質的に実証されている以上、私達の五体の成立もそれが物質のすべてだということは否定することはできない。同時に、肉体の支配者である意識、すなわち魂の存在についても、物質、エネルギーとは異なった次元の存在として、認識せざるを得ないのである。誰にしても、こうして実証を追うことによって、その意識の世界を別の次元の世界と定めることに、異論をはさむことは不可能であろう。物質と別次元のものとの併用によって人間は成立している、と考えるのが自然になるのである。

なぜなら、肉体物質が絶対とした場合、私達は睡眠中に記憶機能が働かないことを誰も否定することはできない。

私達の脳細胞は、従って万能の記憶装置ではなく、五体、五官の通信、受信、指令の機関であるということであり、意識、魂こそこれらの機能を操作する、肉体舟の支配者であり、永遠不変の本当の自己である、と認識できるのである。

意識が肉体を支配し、その意志にもとづいて肉体舟は操作されるという事実を、誰も否定することはできない。この意識の中心を”心”と呼ぶ。

物質エネルギーの次元よりさらに高い意識の次元に存在して、物質エネルギーの塊りである大宇宙体の支配者、神仏の意識の世界に通じているのが、神仏の子である私達の”心”なのである。


「心の発見 科学篇」143頁1行目〜143頁8行目より抜粋させて頂きました

肉体は滅びても、船頭である意識は変わらない。環境に適応した新しい舟に乗り換えるだけであることを知らなければならない。そしてその新しい舟の進路は、船頭自身が定めることになっている。

肉体舟の各細胞集団の一つ一つにも、それぞれの使命と意識がある。そのため、限界以上に使用すれば故障も起きる。また肉体舟の支配者である意識、その中心である心の不調和は、すぐ肉体細胞意識にも影響が与えられることも知らなくてはならない。

舟の故障は船頭の意志によって修理できる。同様に、私達の肉体も、支配者の意志によって、改造することはできるのである。


「心の発見 科学篇」217頁5行目〜218頁3行目より抜粋させて頂きました

しかし医学は、物質的な物の考え方から脱皮して、心の尊厳を悟らない限り、学問であって、医道とはいい難い。

肉体も各細胞も、その集団も皆生命を持っており、心臓は心臓としての意識を持っている。

各諸器官、五体は、人生航路を渡って行く魂の乗り舟としての使命を、神仏と約束して出てきたことを良く知っている。
そのためにも人間は、乗り舟としての限界を良く知り、無謀に働かせてはならない。魂も休むことによって活力を生み、肉体舟も適度に休めることによって活力を生むのである。
眠っているときの私達の意識(魂)は、次元の異なる世界、あの世で神の光を受けてくる。心の調和されている人々が朝起きるときに清々しい安らぎのあるのは、そうした魂のエネルギーと肉体のエネルギーを蓄積させることによって与えられた結果である。
こうした事実によっても、現代の医学者達の物質的なものの判断は、ますます”迷医”を養成する結果にしかならないだろうといえる。彼らには、肉体と意識というものが判然としていないから、精神的現象をとらえることができないのだ。狭い医学から、広い医道に発展して行かなくてはならない。


「心の発見 現証篇」39頁5行目〜40頁末より抜粋させて頂きました

動物や植物には、鉱物などのエネルギーとは違った意識の存在があり、意識の次元と肉体が、それぞれの個性を持って同居している。

私達の場合も、同様に、肉体としてこの世の次元に存在し、意識すなわち魂という高次元のものと同居して成立している。

私達の肉体は、このゆえに人生航路の乗り舟といえる。舟の船頭である意識・魂が離れてしまえば、肉体は舟としての意識しかなく、自らの自由な意志は持っていない。つまり、眠っているときの状態がそうである。

五官も、特別に外部からの何ものかの作用がない限り、記憶することも思うことも考えることもできないであろう。

もし脳細胞がすべてのことを記憶しているとしたなら、私達は、眠っているときでもその能力を持っているはずである。

しかし眠ってしまえば、いかに鼻の穴があいていても、耳の穴があいていても、全く記憶はない。外部からの一定以上の作用がない限り、感知することはできないのである。

その人の体質、状態によって、眠りの時間はそれぞれ違ってくるが、誰でも、眠っているときは、いかなる心配があってもそれを忘れているし、痛い場所があってもほとんどその痛みを忘れている。

意識すなわち船頭が乗り、肉体を支配してこそ、始めて今までの状態が続けられてゆくのである。

この事実を考えても、肉体以外の何者かの存在を否定することはできないだろう。

いかに万物の霊長、神の子たる人間であっても、動物や植物や鉱物または大自然の恵みなくして、肉体の保存はできないということである。

物質の次元とエネルギーの次元。

肉体舟の次元と魂意識の次元。

このように、私達の肉体と意識は不二一体であるといえよう。

そしてエネルギーは不滅であるということはすでに実証されている。また、私達の意識も不滅であるということも誰が否定できるであろうか。


「心の発見 現証篇」230頁1行目〜232頁3行目より抜粋させて頂きました

生命の神秘、人間は、誰でもこの謎に興味を持つだろう。

しかし、私達が、このことを唯物的な考えで追求しようとしても、永遠に解くことはできないだろう。

なぜなら、それは、唯物的な次元とかけ離れた世界に存在するからである。

この質問は、九州で開業している四十二歳の医学博士とのやりとりであった。

私はこの医者に、

「あなたは、人間の精神作用は、どこで起こるか知っておりますか」

と、まずむずかしい質問を投げかけた。

医者は答える。

「大脳の働きによって起きるものと思います」

「では、感応作用についてどう考えておられますか」

「私が患者に対して病状などを語るとき、非常に危険な状態になっているときは、患者の精神作用に影響しないように説明をします。なぜなら、私の言葉が、その生命を左右する力を持っているからです。このような場合を感応作用といえると思います。それは、病状を、私の診察の態度、顔色などによって、敏感に感じとる人々もいるからです」

感応も精神作用に属するということだ。そして、精神作用は、大脳の働きだといっている。私はさらに、次のことを質問してみた。

「あなたは、精神作用は大脳の働きだといっておりますが、では、患者が眠っているとき、あなたの言葉によって感応しますか」

「眠りの状態によって違うし、感応しているかいないかは、患者が語らない限り解からないでしょう」

この医者は、患者が解かっているかいないかは、患者が語らない限り、私の想像にしかすぎないといっている。確かにそうだろう。

しかし、大脳の働きによって、精神作用が起こるのであれば、眠っていても感知できるはずだと質問したが、医者は、それは心理学的な分野だといって、語ることを避けてしまった。

大脳が精神作用の根本であるならば、記憶の領域も、大脳の領域のなかに仕組まれているといえよう。

しかし、ここで問題になるのは、眠っていても、鼻の穴や耳の穴はあいているではないか。とすれば、大脳はすべてを記憶しているはずである。だが、眠っているときには、記憶はない。つまり、眠るということ自体が解明されない限り、謎に包まれたままなのである。


「心の発見 現証篇」234頁4行目〜235頁9行目より抜粋させて頂きました

さて、ここで問題になっている生命の神秘ということだが、現代の医学者は、肉体的な染色体細胞について研究しているので、それは意識(魂)の次元とは異なった、三次元的、唯物的な追及といえよう。

私の指導霊は、いかに細胞の研究ができても、魂・意識(精神)の作用を発見することはできないのだ、といっている。

探究している分野が違うからだ、ということである。

「夜中の月を研究して、太陽の謎を解こうとしている」

ともいっている。心を失ってしまったこの医者には、心の問題は解からないのだ、ということだろう。

このような医者は、迷医でしかあるまい。

細胞は、細胞としての生命を持っているが、この生命は、肉体舟としての生命である。その船頭である”魂”は、肉体舟の支配者であるということである。

色心不二といわれている仏教の意味も、肉体と心ということを説明しているのである。

心ある医者になるには、まず肉体的な諸現象の追求とともに、自らの心の生活を正すことが大切であるということだ。

そのとき、心の曇りは晴れて神の光りに満たされ、あなた達と同じ研究を続けてきている実在界の専門指導霊が、あなた達の追求している努力と研究に、諸問題の解決に、協力を惜しまず、力を貸してくれるのである。

そのとき、医は仁術となり、あなたは名医になるといえよう。

つまり、医学もまた、心を失った状態から、不変的な医道にもどることが大事である、ということだ。


「心の発見 現証篇」259頁8行目〜260頁末より抜粋させて頂きました

医者達は従って、もっともっと心の世界を知って、自らを正すべきである。そのとき、医学はさらに進歩して、心を悟り、肉体の神秘を知った名医になることだろう。

私達グループのなかの人達には、医学の知識がないのだが、体内の内臓諸器管を、レントゲンよりくわしく見ることのできる人がいる。

そして、肉体的な欠陥を、はっきりと判別してしまうのである。

それも天然色で拡大、自由に見えるということで、医者を指定して悪いところをレントゲンにとり対照して見ても、一致するのである。

しかも、レントゲンでも見えないような場所も解かってしまうというのは、心の眼で見るからなのである。

医学者が心を悟って、仁の心を忘れずに毎日の生活をすれば、私達以上にその力を出すことであろう。

エリート意識を捨てて、哀れな病人を心から救ってやろうとする、慈悲の心、愛の心が特に必要ではないだろうか。

たとえば、アイ・バンクに預託してある眼球を使って下さいという提供者の愛と慈悲、患者も本当にありがとうございますという心、何とか治してやりたいという医者の愛情、こうしたものがあれば、互いに拒絶反応も起きないものである。

心臓移植も、心臓には意識があるということを知るべきであろう。

報恩と感謝の心は患者にも必要だし、提供者にも慈悲の心が必要だということだ。

医者は、名を売り物にすべきではなく、仁なり愛なりの心が必要であり、大切だということだ。

そのときには、拒否の態度は、起こらないだろうと、私の指導霊はいっている。

また人間の各諸器官は、皆それぞれに固有の意識を持っているということである。

慈悲と愛を失った医学は、やがて亡びるだろう。



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