両親とのこと(月刊「ひかり」誌2001年1月号より)
                                                                                                                                                                               N.Y 
    

 「お母さん、長生きしてや、百歳くらいまでも長生きしてや、しかしね、いつかあの世に帰らなあかん、その時はじたばたしたらあかんよ、もうこの世は終わったんやから、この世に執着を持ってはいけないよ、そしたらね、光のある人がお母さんをお迎えにくるから、その人について行ったらいいよ、そしてね、反省修養道場という所に行って、この世で自分がして来たことを全部反省するんですよ。そして、悪いことをしたと思ったら、心の底から神様に深くお詫び申し上げお許し頂くのですよ」

 母は84歳です。何時かやって来るこの世との別れの時に、必ず天国に帰っていただきたいという、私の切なる願いで、常にこのような話をさせていただいて来ました。

 その時母は必ず「分かっている、分かっているよ、もう体験済みや。去年の夏一度あの世に行って来た。その時のことを今でもはっきりと覚えている。お前が言っていた通りの世界やった。そこにはガラス張りの広い部屋があり、明るくて美しい所やった。そして、私は足が不自由でどこにも行かれないのが、背の高い人(どこかで見たことのあるような人やが……)に案内されて、自由に歩けていろんな所を見学させてもらった。皆楽しく食事をしていたよ。この時、ああ、これがお前が言っていたあの世なのかと思った。不思議なことにいつもお父ちゃんといっしょにいるのに、その時はひとりぼっちやった。それでも楽しく一人であちらこちらを見て来たよ。そして最後にその『背の高い人』にきつく叱られた。お前のようにいつも死にたい、死にたいと愚痴をこぼす者には、これから先は入れん。もう、帰れ!と言われ、もう二度と死にたいとは言いませんと約束したんだよ」と、その時のことを私が聞く度に、今、先程の事でもすぐ忘れてしまうのに、その話だけはこの一年間、何度も何度も、間違えることなく同じ話をしてくれました。

 前回の「正法と生活」の原稿は、ここまで書かせていただきました。その時思ったことは、このような母の尊い体験は神仏による有り難いお慈悲だと思いました。その時以来、死にたいとか愚痴などを一言も言わなくなりました。そして不思議なことに、何十年も患っていた持病の腹痛もすっかり直ってしまったとのことでした。すべてすべて神仏の大いなるお計らいをいただいたとしか思えない出来事でございました。しかし、本当に母が天国に帰るには、まだこの世での反省が残っていることを「背の高い人」に諭されており、その反省のお手伝いをさせていただくのが、私のこれからの仕事だと思いました。

 丸山先生に、その事をお話しさせていただきました。すると、母の問題(今でも母は父を恨んでいる)をすぐに解決しなければ天国へ帰れないとご指導いただきました。そこで、ある日のこと、実家に帰り、その話をしようとしますと、母の方から「実は先日、お父ちゃんとけんかをしてなあー、何でもないことやが、お父ちゃんを怒らしてしまった。すると、お父ちゃんがこんなことを言うねん。『わしの今の一番の生きがいはお前の世話をすることや。そして、お前に何を食べさせてやろうかとあれこれ考え、食事を作ることがわしの楽しみや。だからいつまでも元気でいてくれ。お前が元気で生きてくれることが、わしの唯一の生きがいなのや』とお父ちゃんが言うてくれたんや」

 あの口下手の父がそんなことを言ったと聞いて私もびっくり致しました、それが父の真心なのでしょう。母は「その言葉を聞いて心を打たれた」と言いました。そんなに私の事を思ってくれていたのかと思うと、今まで恨んでいて、いろいろ悪口を言って来たことが悪かった。申し訳ないと思い、父に対し、心からお詫びをし、感謝したそうです。

 私が話をするまでもなく、母の方からそのように話していただき、少しずつではありますが、母の父への恨みが無くなってきたように思います。これもすべて、神仏のお計らいをいただいたものと思い、心から手を合わさずにはおられませんでした。

 つい先日まで、母は父を責めておりました。そうすることによって、母は自分の古傷を癒していたのではないかと思います。それは今から50年前、父と母の結婚に話は遡ります。

 当時、父は再婚で38歳、別れた先妻との間に、二人の男の子がいました。母は初めての結婚で34歳の晩婚でございました。母は元々結婚する意志がなく、母の弟が結婚して実家を継いだため、家に居辛くなっておりました。ちょうどその時、人の勧めで父と見合いをしたそうです。母にすれば不幸はその時から始まったと言います。それは、父にすれば二人の子供の世話をする人がほしかったそうで、そのために結婚したわけです。その事を母が知った時、一度はこの結婚は諦めたそうですが、実家の事情を考えた時、自分の都合ばかり言えず、止むなく嫁いだと話してくれました。

 さて、結婚と同時に二人の子供の母となったわけですが、長男が中学生、次男が小学校2年生。上の子供はどうしても継母にはなつかなかったそうです。下の子供はかわいくて、母は実の子供のように可愛がったそうです。しかし、母にすれば自分の子供がほしかったのです。父は激しくそれに反対したそうです。父にすれば次に生まれて来る子供のことより、自分の責任で先妻と離別し、母をなくした二人の子供が不憫で仕方がなかったのでしょう。人一倍子煩悩な父は、母の幸せについて考える余裕がなかったのではないでしょうか。しっかり者の母は、そのような父の気持ちを知り、愕然となり失望したそうです。しかしどうしても自分の子供がほしいと願い、やがて私がこの世に誕生いたしました。

 母にすればいつしか頼れるものは父から私に変わっていったのでしょう。今の時代と違って当時の女性は仕事もなく、自立して生活することは非常に困難でありました。ましてや学校教育も充分受けていない母にとって自分の肉親だけが唯一の頼りであったわけです。しかし、私が生まれたことによって母の他の子供たちへの愛情は少し薄れたかも知れません。父は敏感にそのことを察知して何かにつけて子供のことで母を厳しく責めたそうです。母はよく私にお乳を飲ませながら、そんな我が身の不幸を嘆き、よく泣いたそうです。すると赤ん坊の私も一緒になって大きな声で泣いたそうです。昭和20年代、戦後の苦しい時代、不幸な人たちが多い中で、母もその一人であったと思います。

 母は自分の意見をはっきりと主張する人でしたので、当然、夫婦喧嘩は絶えず、いろんなことでこじれていたようです。母も一生懸命だったと思います。父も苦しかったのだと思います。やがて二人の子供は学校を卒業して実の母の元へと帰ってしまいました。他人の子供でありながら、一生懸命心血を注いで子供を育てて来た母にすれば、二人の子供との別れは、悲しい思い出以外、何ものでもなかったでしょう。そのような話を母は私に幼い頃からいつも語っては涙を流しておりました。私は幼心に、両親はどちらも不幸だなぁと思い、二人の兄弟もかわいそうだなぁと思いました。ですからこのお話は私にとって、一番触れたくないことで、いつも心を閉ざしておりました。しかし、今にしてそれが間違いだと気づきました。

 それは今年の10月の大阪地区学修会で、丸山先生より、「あなたがお母さんのお腹の中にいる時、そしてあなたが生まれてからのご両親の夫婦仲がどうであったかを、実家に帰ったときに、一度聞いてみてください。そして私に報告してください」とご指導いただきました。早速、実家に帰り、母に尋ねてみると、先程のような話を、長い時間をかけて語ってくれたのでした。目に一杯涙を溜めて話してくれました。以前の私でしたら、また始まったなぁ、あまり聞きたくないなぁと思い、断片的にしか話を聞いておりませんでした。今回はそう思わず、しっかりと母の目を見つめ、話のすべてに聞き入りました。その時思ったことは、私の反省としてなぜもっと以前から真剣に母の話を聞いてあげられなかったのかと思いました。

 また、父にも言い分が多々あるのでしょうから、もっともっと聞いてあげるべきだと思いました。両親にとって過去の出来事を二人だけのものとして悩まず、私が真剣に法に沿って正しく聞き、正しく語ることによって、両親も私も救われるものと思いました。もう私達には時間がありません、少しでも時間を作って実家に帰るようにして、母からだけではなく、父からも話を聞かせていただきます。それが私の出来る報恩感謝であり親孝行だと思います。私が49年前、この世に生まれた時、父は喜びのあまり号泣したそうです。母の喜びもひとしおだったと思います。心から祝ってくださったのです。そんな私が両親にお返し出来るのは、何不自由のない安らかな晩年を過ごしていただくことです。次に、ニコニコ顔であの世に旅立っていただくことです。そのためにも私が正法の実践をし、偉大な神仏にお縋りすることだと思います。

 私の両親は本当に神仏によってお救いいただいていると思います。

 その事を主、高橋信次先生に心より御礼申し上げます。本当に有り難うございます。

 先生、いつも私の両親のことをお気遣いいただきまして誠に有り難うございます。私は先生との出会いによって、親不孝者にならずに済みました。残された時間、精一杯親孝行させていただきます。これからもご指導のほど宜しくお願い申し上げます。


   (堺市・公務員)

 


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