金沢講演会「心の原点・心と肉体と経済」(月刊「ひかり」誌2001年1月号より)
 高橋 信次
 
丁度私は10歳の時に、何回も死んだり生きたりしました。最初の一、二回は殆ど無意識のまま分かりませんでしたが、3回、4回となると、肉体から自分のもう一人の自分が抜け出している姿を体験しました。それが一年近くも続きますと、勿論医学の面では、この問題は解決出来ずまま、このもう一人の自分とは一体何であるか。その結果、この問題を解決するためには、宗教的な面では当然子供ですから分かりません。自然界というものを通し、極微の世界、この極微の最も小さい世界は一体どうなっているだろう。極大の世界はどのように構成されているだろう。動物や植物や鉱物というもののお互いの相互関係はどうなっているだろう。こういう自然科学を通して追究してまいりましたが、もう一人の自分というものが理解出来なかったのです。

 更に医学の面を通し、人間の肉体細胞というものの構成や、或いは脳細胞というものがどのような作用を成しているのか、このようなものを追究してまいりました。しかしそれでも、肉体から抜け出したもう一人の自分というものが理解出来なかったのであります。

 我々は、この地上界に、何の目的で生まれてきたのか。そしてやがて死んでゆく。人間自身の生まれて来た目的と使命というものすら、分からずまま、暗中模索の中に、人生というものに対する追究をしてまいりました。

 そこで、世の中では、心を、或いは精神を正せといっております。我々は苦しみや悲しみを通して解決が出来ないと神様に頼ります。仏様に頼ります。神様や仏様というものは一体どのようなものか。しかし私達は永い歴史の中に祭られているところの神社や仏閣、こういう所に神がいるのではないだろうか、仏がいるのではないだろうか、或いは仏壇に、或いはお墓に先祖がおられるのではないだろうか、あらゆる角度から私は追究してきました。

 その結果、昭和43年の7月、家の中に大きな現象が起こってまいりました。それも日本人であるべき我々に、全く関係のない外国の言葉で次々と現象が出てきたのです。

 私は科学者です。割り切れないものは否定します。コンピューターを作っておりますが、現代のコンピューターも、回路が一つ違っても計算はしてくれません。人生においてもまた同じことがあるはずだ。私はこうして一足す二は三にならなければ信じられない人間だったのです。そして神様を、仏様を、さらに、自分の肉体から抜け出した自分自身というものの存在。心とは一体何か、初めて分かったのです。しかも心には、形があるということなのです。昔から心は丸くといってます。三角や四角では困る。心は丸くといっています。じゃ、その心とは一体どういうものか。一番大事なのは、我々はあくまでも、今持っているところの皆さんの肉体というものは、約60兆からなる細胞集団によって、肉体先祖を通して受け継がれ、今持っているものですが、これはあくまでも人生航路を渡っていくための舟にしかすぎない。何故ならば、我々は肉体が絶対だと錯覚を起こした時に、一切の、物に執着をもち、地位や名誉、こういうものが人生の絶対かの如くに私達は錯覚を起こしておりました。

 しかし、我々の心は、次元が違うのだということなのです。今皆さんの住んでいる所のこの地上界は、物質界であって、いつまでもこの現象の世界に存在するものは無常なものであり、自分のものだと思っていたところで、一つとして自分のものは存在していないのです。今皆さんの人生航路の乗り舟である己の肉体ですら、皆さんは、自分のものではないというのです。もし皆さんが、自分の肉体が自分のものであるならば、皆さんはいつまでも若さを保つことが出来るはずです。しかし、この若さも保つことが出来ず、私達はやがて年を老い、好むと好まざるに拘らずこの地上界を、去らなければならないのです。やはり肉体も無常なものであり自分のものではないという事実は、明白なはずです。

 しかし私達が、あの世という世界の存在を、もし否定するならば、皆さん眠っている時のことを考えてみましょう。人生航路の乗り舟であるところのその肉体の船頭さんが、降りた時には、皆さんの耳の穴も開いております。鼻の穴も開いております。しかし私達は耳元で自分の悪口を言われても怒ることすら知らないはずです。どんな匂いがあってもそれを感知することも出来ないはずです。こうなりますと、眠っている時の我々の心、魂というものの価値はどのようになっているでしょう。

 しかし肉体の脳細胞の神経繊維のそれぞれはちゃんと波動を、振動を起こしております。

 こうなるとやはり、永遠のものというものは一体何でしょう。皆さんの肉体を支配しているところの船頭さん、即ち皆さんの魂なのです。そんな馬鹿なことがあるか、魂など存在する訳がない。もし、皆さんがそのように思うならば、皆さんの脳細胞はあくまでも、物事を受信し、送信する一つの、コンピューター室に過ぎないということなのです。

 或る医学者達は、ものを考えるのは前頭葉だと言いました。それならば、皆さんが心の中で、嬉しかったり、悲しかったりしている時に、込み上げてくるものは頭の中から込み上げてくるでしょうか。皆さんの心の中の感情の領域が、込み上げてくるはずです。我々の脳細胞は、ものをキャッチし受信するただの、セクションにしかすぎない事実が、あらゆる今後の医学界においても実証されていくでしょう。もっと大事な、肉体の船頭さんである皆さんの魂、その中心にある心というものこそ、不変的なものだということなのです。

 そこで、物理学を通して、次元の変わった世界、これを考えてみましょう。

 今、特殊相対性理論によっては、皆さんが日常生活の中でエネルギー、エネルギーという言葉を使っていますが、エネルギーというものは、目で見た人は誰もいないのです。何故ならば、仕事を成し得る能力だからです。このエネルギーというものは次元が違うのです。次元が違います。

 我々は、このエネルギーというものは物質の質量に対して、いま、質量をMとします、この質量に対して、光の積の平方であるというように言っております。即ち、エネルギーはイコールMC2である。物質の質量に対して、光の速度の積である。

 例えば水素の一グラムを完全なエネルギーに変えたとしたならば、これは3×10の10乗の括弧の平方ということになります。こういうエネルギーになりますと約746ワット、一馬力のモーターを3,800年間も回すことが出来ます。これが、エネルギーなのです。仕事を成し得る能力なのです。これは次元が違います。

 いまこの物質の次元というのは、皆さんの住んでいる世界、三次元の世界なのです。?軸とY軸とZ軸という三次元の世界は物質の世界なのです。何故ならば物質というものを物理的に定義づけますと、質量と体積を有するもの、これが物質だと言っております。そうなりますと、相対性理論を通しても物質の世界というものは、必ず質量があるんだ。そして光の速度というのは、一秒間に、地球の周りを七回り半すると言っております。正確な数字で申しますと、299,774キロメートル、このスピードです。ところが仏教におきましては、仏教では、これを色の世界といっております。そして我々の次元の違った世界を心の世界と言っております。色心不二と言っております。色心は不二である。或いはまた、色即是空とも言っております。あるいは空即是色とも言っております。こういう一つの仏教の教えの中にも、色心は不二だということは、このように同じだという事を説いております。

 いま、皆さんの目に見えるところの世界というものは、七色の虹の世界しか、皆さんはこの五官でとらえることは出来ないのです。七色の虹といいますと、周波数で計算しますと、約4千オングストロームから7千オングストロームの間です。この周波数の世界しか皆さんはこの目で見えないのです。しかも、虹の七色の両極端にあるところの赤色、赤色から更に赤外線から電波に至っております。この電波も赤外線も皆さんはこの目では見ることは出来ないのです。更にまた極端であるところの紫外線、x線、γ線、こういう熱線も見ることは出来ない。しかし存在しているのです。

 我々は、人間のこの目で見える世界というものは、ほんの小さい世界だということを知らなくてはいけません。しかし仏教では、目でとらえる全ての世界というものは、色彩をもっております。色彩を持っているために、この一切の万象を色と言ったのです。色心は不二だという心というのは、皆さんの肉体と心は同じだと言っているのです。更にまた、色即是空という空の世界というものも、この色という世界も同じだと言っているのです。唯、こちらは次元が高次元なのです。

 こちらの世界ははっきりと三次元以下の世界だと言えるでしょう。

 二次元の世界というのは、皆さんが毎日見ているテレビジョン、あのスクリーンはX軸とY軸の平面の世界です。その平面の世界、そのスクリーンは三次元から投映された世界です。その投映されているところの世界の二次元に対して、如何にその投映されているところのヒロインが可哀想であっても、皆さんは声を掛けても通じないはずです。しからば、三次元の世界というものはどう説くでしょう。

 我々は、三次元は四次元以降の世界の投映されているものであり、そこに次元の存在があるのです。この三次元の世界というのは非常に、振動が粗悪な、物質的な不安定な世界なのです。振動の非常に不安定な世界なのです。そのためにプランク常数の振動数というものの積は熱粒子のエネルギーです。そういたしますと、hνというプランク常数と振動の世界というこの自然界における諸現象は一切振動からなりたっております。皆さんの心から生ずるところのものまたこれ振動です。皆さんの脳細胞の中に起こるところの脳波の波もやはり同じ振動です。ただ次元が違うだけなのです。こうして考えていきますと、色即是空の世界をもっと分かり易く考えてみましょう。

 いま、私達は固体、液体、気体という三つの変化をする自然の現象を知っているでしょう。この三つの変化をする氷について考えてみましょう。

 氷というものは、表面に出るのは約10パーセントです。殆どが水の中に入っているのが90パーセントです。よく氷山の一角と言っているでしょう。この氷というものは、分子式で書きますとH2Oです。この水もH2Oです。こうして我々は、水の密度と氷の密度の差によってそれのパーセントを見ますと10パーセント位しか表面に出ていない。しかも今日は、東京方面は雨がいっぱい降ってきています。それも空から降ってきています。空はこうして、まったく水の分子がお互いに分散している状態です。分散されている状態という事は、ここではじめて熱粒子であるところの、振動数というものの作用によって膨張をしてくれば、分子の間に入る熱粒子が膨らんでくるから蒸発します。逆に収縮をしてまいりますから、今度は水に変わったり、或いは氷に変わります。収縮の度合いが完全に振動数の状態が、小さくなればなるほど、粒子の変化もまた同じように変わってまいります。

 こうなりまして、宇宙に存在しているところの、空のあの水もまた高度千メートル上がる毎に6、5度ずつ降下していきますから、やがて蒸発したところの我々の目に見えない水蒸気も、お互いに熱粒子の収縮にあって雨になり雪になり、そしてまた地表に或いはまた雨となり降ってまいります。こうなりますと、氷のH2Oも、水のH2Oも、分散されているところのH2Oも、一つとして変わらないのです。

 ということは、仏教ではこの世界を色だと言っております。ですから空は見えない世界であっても、また見える世界であっても、色即是空であり空即是色です。水蒸気のH2Oは氷のH2Oと同じであり、氷のH2Oは水のH2Oとなんら変わらないということなのです。唯これが、分散と集中だけなのです。

 さてここで我々は次元の違った世界のことを考えて、あの世なんてそんな馬鹿なことがあるもんか、というならば、この自然界に存在するあらゆる諸現象は、全て輪廻転生を続けております。

 輪廻転生を続けていないものは何もないのです。ただ見えなくなったから存在しないということはナンセンスです。我々は見えない世界の方が遥かに多いという事実は、あらゆる科学的な世界においても、はっきりとしているのです。

 現代私達が、物理学を通しても、もう既に現代の素粒子理論は壁にぶつかり、それ以上進むことが出来ない段階です。我々はややもすると科学的、科学的というものの考え方に立ちがちであるけれども、科学なんていうものはまだメッキより薄いものなのです。見えない世界の方が遥かに多いということを知らなくてはいけません。

 こうして次元の違った世界、一体神とは一体何でしょうか。或いは仏とは一体何なんでしょうか。

 我々は分からずままに、永い歴史の中に体験されて来ているものを絶対視して、それを拝むようになりました。しかし人間が物質だけを追い求めて得たものは一体何なんでしょう。

 私は飛行機に乗ってこの金沢へ来ました。空港は非常にきれいで空気が美味しいです。東京を出てきた時には丁度鋳物工場のような臭いがします。それだけ空気が汚れておるのです。昔の東京、特に私のビルの裏側は隅田川です。今から25年前の隅田川は白魚が取れました。水がきれいでした。ドジョウもいました。残念なことに今は全く変わり果ててしまいました。その自然の公害を作り出したのは、人間が物に溺れ、物だけを考えた時にあのような現象を作り出したはずです。しかもスモッグです。美しい空を東京で見ることは出来ません。天気だからといって外で遊べば、化学スモッグによって、硫化物やこの間は硫酸が降ってまいりました。目を開けていることが出来ないのです。それは一体どうしてでしょう。昔はそんなことはありません。ビルの屋上に上がって深呼吸しようとしても、ちょっと待とうと考えてしまいます。

 この場所なら思い切って深呼吸出来ます。これは現実に体験している人でないと分からないのです。自然というものを人間が物を追いかけて、追究してその欲望を満たそうとして、公害を作り出したのです。公害はこうして人間の、心を失った、物だけに溺れた結果なのです。

 混乱と闘争も同じことが言えます。我々はこうして物の考え方を、心という偉大なる価値観を知ったならば、やはりその上の文明でなければならないのです。今は人間性を失って、自分の都合さえよければいいという、欲望のままの社会が展開されている事実を皆さんは知っているでしょう。

 闘争と破壊、一方の思想のごときに至っては、物が全てだ、お金が全てだ、こういうものによって常に労使の争いは続いております。遂に日本の国自身が経済的混乱を来たしておるではありませんか。これも人間性の価値観を失ってしまったところにあるのです。人間は闘争と破壊の中にあるものではないのです。闘争と破壊は、人間以下の動物が、万物の霊長に進化する過程の一つの修業なのです。

 それを我々は神の子として偉大なる人間としての価値観を忘れて、動物以下に成り下がっているといっても過言ではないと思います。

 さて神とは一体何か。

 我々は決して祭られているものは神ではないのです。この大自然界をごらんなさい。太陽は、一秒間に9.3×1022キロカロリーという莫大なエネルギーです。一秒間に二百万トンからの石炭を燃焼しただけのものを地球にタダで毎秒与えております。

 ところが今から二年前あの中近東をごらんなさい。あの石油問題、地球といっても地球はお天道様(おてんとうさま)を壊して地球を作ったなら、33万個も出来るのです。一部分のあのサウジアラビア周辺の石油問題だけでも、世界中の経済が混乱し、値上がりして、経済的な不調和な現象を造り出しています。しかし、お天道様は、それだけのエネルギーをタダで与えて、無所得です。一銭のお金も取りません。

 皆さんがお父さんやお母さんから無所得のままに育てられたように、25歳まで一人の人間が両親によって育てられて一人前になるまで、お母さんとお父さんに毎月一万円、一人五千円ずつの給料を払って25歳までとしたら約一億二千万かかります。高等学校三食昼寝付きまでつけたら、これは二億五千万からのお金になります。

 お父さん、お母さんはそれだけのお金でも無所得に子供を育てているのです。神様の心は太陽と同じです。自然の心、自然の姿そのものが神の心なのです。神なのです。

 我々の住んでいるこの地球上そのものが神なのです。皆さん自身が、こうやって生存できるのも安定した太陽の熱、光のエネルギー或いは動物や植物や鉱物、この自然の相互関係の中に、人間がいま生きていると言えるのです。

 もしこれが太陽が、少しでも熱を強くしたらどうなりますか。南極、北極の氷は解けて地球は水浸しになります。逆に地球の地磁気がどんどん狂ったらどうなりますか。赤道がどんどん変わってゆきます。皆さんの体はそれを受け付けないでしょう。生かされているという自然そのものが神の心であるのです。しかし我々は神様ってそんなもんではないと、いろいろ拝んで、或いはこの中にも神様が何人もいます。そういう人達が本当の神かということです。とんでもないです、おかみさんは一杯いるけども、本当の神様など一人もいません。ここで我々が考えなければいけないのは、色々こうして、神様というのは、人間の体を通して出てくる稲荷大明神だの、八大竜王だの、何とか菩薩だの、或いは光明如来だの、妙法如来だの、いろいろな事を言って出て来ますが、皆さんはそんなものを信じてはいけません。

 神様は無所得です、お金など一銭も取らないのです、そして威張りません。これが神の心であり神なのです。しかし、人間の心の中から出てきて新興宗教の教祖達は、自分の立場が少しでも良くなってみたり、自己保存という欲望のままに動いてくると、宗教の責任者達は財を築いて、自分の栄耀栄華を計っています。お天道様は計っていますか、我々はそんなものを信じてはいけません。

 皆さん自身の内なる心、皆さんは神の子として己に嘘のつけない善我なる心があるでしょう。皆さんが自分に嘘のつけない心こそ、神の子の証なのです。しかし、自分さえ良ければいいんだ、というものの考え方の面に立っている心は、偽りの我なのです。こうして我という中には、皆さんの心の中には、嘘のつけない善我なる心と、偽りの我というものが出来ているのです。

 この偽りの我というものは、皆さんがこの地上界に生まれてきて、そして育った環境、教育、思想、習慣の中に、自ら作り出したものなのです。人間は生まれながらにして皆美しい、丸い豊かな神の心だったのです。それが段々と自分自身の心に歪みを作り、曇りを作り、苦しみは皆さん自身の偽りの我が作っているのです。この偽りの我を支配することが大事なのです。これを支配出来た人こそ幸せな人達なのです。善我なる嘘のつけない心のままに生活をしたならば、人間は誰も救われるのです。しかし救われないのは、自分の家柄だの、地位だの、名誉だの、或いは自分の子の為といって財産を残し、その財産によって残された子供が争いと闘争を繰り返している。これが本当でしょうか、そうじゃないのです。如何なる財産家であろうとも、大統領であろうとも、ただの人間として、その人々はその環境の中で己の魂を磨くために人間は出て来ているのです。

 貧乏人だからといって、人間はちっとも卑下することはないのです。神は全て平等です。太陽が全て平等に熱光のエネルギーを与えているように、人間の作り出した経済や物質や地位や名誉によって、人間の価値が変わらないということを知らなくてはならないのです。

 例え貧乏に生まれても、永遠の転生を通し、皆さんの心の中には、あらゆる体験が、ビデオテープレコーダと同じように、永遠の生命として、皆さんの心に全部記録されているのです。唯その記憶が、皆さんはこの地球上という環境に出てしまうと、僅か表面に出ている10パーセントの意識なるが故に、分からなくなっているだけなのです。

 これを仏教の言葉では、皆さんがよく知っている般若心経です。あの般若心経というのを、摩詞般若波羅蜜多心経となっております。中国の漢字で書かれているけれどもあれは当て字です。本来中国の古代語はマーハーパニャーパラミタストラーというのです。マーハーパニャというのは偉大なる智慧ということです。パラというのは到達するということです。ミターというのは皆さんの心の中にあるということです。という事は皆さんの心の中には、永い転生輪廻の体験されたるところの偉大な智慧が皆さんは誰も持っているのです。これを仏智というのです。

 しかし、我々は永い歴史の中に、何時のまにか南無妙法蓮華経を拝めば救われるとか、南無阿弥陀仏を唱えれば救われるとか、このように変わってしまいました。果たして南無阿弥陀仏だけを唱えて救われた人は、今だかつて誰もいないのです。もしいたとしたら、それは狂信にしか過ぎないのです。

 南無阿弥陀仏というのも、何時のまにか現代のお坊さん達の中には、阿弥陀如来というのは西方浄土だ。しかしそんなのは架空であって、生きているうちにちゃんとする為に、仏様はそのような方便を使って言ったんだと言っております。そうしたらそう言うお坊さんに聞きたいのです。死ぬ時に何のために引導を渡すか。引導を渡すとは一体どういうことですか。それこそ自分に引導を渡した方がいいと思うんです。

 まず我々は、肉体が滅びて人生航路の目的と使命というものを果たさずままに、この地上界を去れば皆さん自身の地獄の世界というものがあります。それは皆さんの心の中に存在しているのです。それは我々自身、永遠の生命としてあの世とこの世を転生輪廻をして、あの世では魂がブラブラしているのではないのです。皆さん自身の肉体とまったく同じ肉体が存在しております。よく皆さんは仏像を見た時に、この仏像の後ろに後光というものが出ております。この後光というのは、如来とか菩薩とか、或いはキリスト教のイエス・キリストのお弟子さん達にも後光というのが出ています。この後光というものは、その人の心のまろやかさ、広さを現わしているのです。

 この心が丸く豊かで、皆さんの心というのは、丁度風船玉のように丸く豊かなものです。その中を更に分解してみますと、上の方には智性という領域があります。そしてまた本能の領域があります。そしてまた感情の領域があります。皆さんの心の中には非常に敏感に作用する想念の世界があります。思うということ、念ずるということ、そして真中から更に下には理性という領域があります。こうして皆さんの心が丸く豊かな時には、智性も本能も理性も感情も想念も、丸く豊かになっております。ところが自分の肉体舟、耳で嫌なことを聞きます。自分に都合の悪いことを聞くと直ぐに感情的になって心の面が歪みを作ります。感情が大きく膨らみます。心は歪みを作るから理性を失います。それ故に、会話を通しても心の中の感情が歪みを作っている時には、理性が正しくブレーキがかからなくなります。その結果、人のいうことも正しく聞けなくなります。或いはまた年頃になっても自分の本能がずっと膨らんで感情が大きく膨らんで、心をよく見るとこのように、ハート型になっております。こういうハート型になってしまいますと、智性の方も利かなく、本能が膨らみ感情が膨らむから理性もブレーキが利かなくなります。

 恋愛などしている時に、本能と感情ばかりが膨らんでしまうから、アバタもエクボになってしまうわけです。こういう状態で皆さんものの判断が正しく出来るでしょうか。心の中の歪みはこうやって出来ている時には、その人達からはきれいなピンク色の光が出ています。この中にもいますけど、そういう人はいま異性の事を考えている証拠なのです。それも異性もいいけれども、不純な異性の考えを持っている人もいるのです。いい歳して。そういう人にはピンク色の光が出ているのですよ。だからなるほどピンクムードなんて言ったのはこういったところから出たのではないかと思います。ハート型なんて言うのを見まして、心というとたいてい西洋へ行くとハート型に矢印が入っています。確かに恋愛をし、心が調和されていない人の心をパッと見ますとハート型に見えます。それもピンク色の光が頭からパーッと出ていますからこの人は目下恋愛中だと分かるのです。ですから人間の心というのは、常にこうやって変化します。こういう心の状態を仏教では一念三千と言っております。一念三千ということは皆さんの心は刻々変化している。見たり、聞いたり、思ったりすることで刻々変化しています。

 こういう心の状態によって自分の苦しみを作っているわけです。

 思うということ、この思うということがいかに、我々の生活の中に歪みを作ったり喜びを作っているかということがよく分かるのです。

 我々の心はやはり、本能も智性も、感情も、想念も、理性も、常に丸く豊かでなければならないのです。また嫁と姑の仲で、お嫁さんは姑さんの前ではうるさいから、一応うまいことを言って、対話をしているけど、心の中では、このくそ婆め早く死んでくれなんて、思っているのですね。そういうような人に限って半病人になるのです。最近は、姑さんの方がだいぶ弱くなってきたもんだから、あっちが痛いこっちが痛い、こっちが神経痛だなんて騒ぎ始めているのは、そういう人達の心の歪みが作っているのです。ですから、自分の体の調子を見てどうもこの辺が調子が悪いぞと思ったら、船頭さんの方を修正することが先決です。ノイローゼ、気違い、百パーセントそうです。一念三千の心の中が、こうやって、善の世界と悪の世界。善我と偽我の世界。こういう皆さんの心の世界があります。

 この心の世界が偽我の世界へ行くと、地獄に通じております。地獄というものはどうして出来たかと申しますと、永い歴史の中に人類が、あらゆる体験をして、正しい道を踏み外した人達、恨み、妬み、そしり、愚痴、怒り、こういう心のままの生活をしている人達は、いつの日か地獄界という世界に自分から心に作り出したスモッグ、このスモッグが神の光を遮ってしまいます。その結果暗い陰が出来ます。その暗い陰が地獄の世界なのです。ですから、地獄極楽は今生きているうちから、もう既にあるのです。みなさんが苦しんでいる世界は地獄の世界なのです。今自分が病気だ、精神的に、肉体的にあらゆる苦しみを持っている人達は、必ずその苦しみの原因を追究することです。

 その原因というものを追究したならば、その根は必ずあります。病気或いは苦しみの原因というものを、皆さんは自分で追究することです。その原因を追究すると殆どが自分さえ良ければいいという自己保存の心です。

 この自然界の一つを見てご覧なさい。人間一人で存在することは絶対出来ません。あの植物をごらんなさい。植物は、CO2という炭酸ガスを吸収して酸素を出しております。しかもCO2という二酸化炭素は、太陽の光合成によって澱粉や糖分を作り出して、皆さんの血や肉や骨になっております。それから皆さんの排泄物はまた植物のエネルギーとなって、根の中から或いは葉から吸収して、彼らはまた成長しているのです。動物も植物もお互いに相互関係なのです。

 また水がなかったらどうなりますか、植物は生存出来ないでしょうし、我々も生きてはいけないのです。こう見ると動物も植物も鉱物もお互いに、助け助けられつつ、相互関係の中に安定しているのです。皆さんが今酸素の量というならば、一本の直径が80センチメートル、高さ20メートルの松一本から排出されるところの酸素の量は、皆さんの呼吸する量なのです。もし植物がなくなってしまったら、皆さんは生きていけないのです。こうして自然界のルールというものはお互いに持ちつ持たれつで、俺さえよければいいんだというものは一つもないのです。そうなるとやはり、自然を通しても自分さえ良ければいいというものの考え方は、間違っているということに気がつきます。

 我々は、お金とか物の奴隷になっております。如何にお金や物の奴隷になったところで皆さんは、これでいいということはないんです。人間はやはり足ることを知らなくてはいけません。この足ることを忘れ去れば、我々は苦しみです。足ることを知らない人ほど、欲深き人間です。如何に財を貯めたところで自分だけの財は無常なものです。必ず苦しみや悲しみがついてくるものです。こうして我々の心の中というものを考えてみますと、一番大事なのは、豊かな心、豊かな精神を作ることです。自分の心が豊かであれば、自然と心の中も和み、生活そのものも調和されてくるものです。その為にはまず、人の言うことを正しく聞くことです。自然界のものはバランスを崩してはいません。

 全てのものが、大調和をしているのです。大調和をしているならば、やはり偏らないということです。そのためには、まず正しく聞くことが大事です。

 偏らないということを一つ、みなさんの生活を通して考えたならば、仏壇や或いは神社に水をあげたり、また塩をあげるでしょう。こういうものは一体どういう意味ですか。この塩というものを化学方程式で書くとNaClというものになります。塩化ナトリウムです。この塩化ナトリウムも元を正せばNaOHという水酸化ナトリウム。片方はHClという塩酸です。こういう両極端の塩基性のものと酸性のものがお互いにくっつき合いますと最も安定した塩になります。水酸基や水素は逆に熱を加えるから蒸発してしまいます。塩というのは清めるといいます。清めるということは、やはり調和ということです。ですから塩を蒔けということはその環境を調和するということです。調和するとは形ではなく心も調和しなければならないということです。

 私の東京の側には浅草の観音様という有名なものがあります。善男善女がお参りに行っています。そういうところにお参りに行っているから、さぞやみんなきれいかな。ちょうど私達も人の心の中が、皆分かるものですから、神様の代わりになってたまにあそこに行って聞いていることがあるのです。そうすると、田舎の方からバスガイドに連れられてきて、皆様ここは浅草の観音様です。観音様は隅田川から救い上げられてこういう風に祭られています。有り難い観音様ですと教えています。

 そういう人達は、早速ガマ口からお金を出して拝んでいます。たいてい田舎から来ている人達の多くは、拝む目的は何もなく、皆やっているからといってやっているだけですよね。余程東京の人は図々しいと見えまして、若い人達なんか今日の松戸の競輪は3─6にしたらいいか、4─3がいいか、第2レースがいいか、観音様、私に霊感を与えてくれなんて、ま、ひどい人になりますと何処何処のパチンコ屋の36番が昨日出たから今日も出ますようにと拝んでいる人もいます。

 受験の時期になりますと、殆ど学生、子供達、高校生クラス、中学生になりますと拝んでいるのが自分の志望校の名前をあげましてね、神様、観音様、是非ひとつ、私は今度は東大を受けますから是非受かりますようにお願いします。まあそういうように拝んでいるのが多いですね。観音様、さしあたり東大を受けると言ったらお前の足元を明るくしろというでしょう。灯台下暗しというから、こういうことで、皆んなこの神様にお願いすればいいということですね。もう、それで偶然に当たってくれれば運がいいのです。もし、当たったとしたらその人は最大の努力をした行為をしたからです。そういうことを忘れて、我々はそういう一つの信仰というものが絶対だと思っている。

 他力信仰という間違いはそういう所から出てくるわけです。ですから皆さんが神様というのは大抵、山に登って滝に打たれ、そして霊感が湧いてきて、滝に打たれている最中に、我こそは不動明王なりなんて言われるともうその方は、あー神様はついにお成りになったと、そのうちに人の事を二、三当たるうちに新興宗教が出来上がっちゃって、神の使いだとか、或いはお前は創造主だとか言われると、自分のやっている行動をみて創造主であるかをよく判断すればいいのです。創造主であったならば、全ての力を持っております。全ての現象を出す事もできます。

 そういう力もないままに、そんなものを皆さんは信じてはいけません。そして殆どの拝み屋、そういう神様は、病気だ、貧乏だというと、お前の家の先祖がたたっているから、浮かばれないからこのようにして供養しろと言う。一体供養ってなんだろう。そんなものを信じてはいけません。

 或いはまた貧乏などしていると、お前は前生において悪いことをしたから、今貧乏しているのだ。冗談じゃありません。あの世は、日本の一万円札持っとっても通じないのです。いわんやアメリカのドル持っていってもドルにもならないのです。お金などというものは関係ないのです。

 人間が永い歴史の中にこういう流通経済としてこういうものを作れば便利だということで作ったのです。冥土の沙汰も金次第というのはお坊さんが勝手にそのようなものを作ったのです。お金なんか一銭もなくたってあの世へ帰れます。無賃乗車出来るのです。この世を去る時にお金などいらない、ただ葬式の金ぐらいはしょうがないですけどね。でも本来は、そういうようなものではないのです。我々は死んだらすぐにお墓におったり、お寺におるなんて思ったらとんでもないことです。

 皆さんそれが証拠には、宗教の指導者、あるいは神主さんお坊さん達が、本当に心に生活に調和がない、家庭が混乱しているのはどういう訳か知っていますか。そういうのは家庭の中が、心の根本が分からずに、この地上界を去った亡者たちがそこに生活をしているからです。彼らは、そのような人達が、また心の中が、道を自分自身が分からない為に生活が乱れる。乱れるから今度その人の心を混乱させる。家庭が乱れるというと、今度はそんな家庭には不調和な子供が生まれてくるのです。

 そういうことは全て霊的な現象なのです。不調和な現象が起こっているということは、我々に対して反省のチャンスを与えているのです。どうして、何故その原因は、これを追究せずままに我々は盲目に過ごしてしまう訳です。それ故に我々は信仰というものは、非常にやはり、正しいという規準を悟らなければならないのです。

 塩というものは清まるということから中道ということを教えています。

 或いはまた、お水を上げます。水の分子式をみるとH2Oといいます。これも両極端の水素と酸素です。これが水素二つと酸素一つでくっつくと今度は、可燃性の物が、そのものを消し止める力をもちます。中道ということですね。偏らないということです。中和ということ、調和ということです。こういう調和ということで塩をあげたり、水をあげたりするんです。それをいつのまにかそれが形になったわけです。例えば、皆さんがお寺へ行くと多宝塔ってありますね。五重の塔、三重の塔。多宝塔、これも実は、皆さんの心の中に多宝塔があるんです。ストパーともいいます。皆さんの心の中には、永い何億何兆万年も転生輪廻をしてきたところの、体験された偉大な智慧が、皆さんの心の中には全部記録されております。そういう記録された多宝塔が皆さんの心には誰もあるものを、いつの日か分からなくなるから、ああいう形になって現れてしまったのです。

 我々はこうして、人間は偏らないという、正しく聞くというのもやはり偏らない、自分を善意なる第三者の立場において聞けば、どんな悪いことを言われたって別に他人様が言われているんだと、その原因はどこにあるか第三者の立場で聞けばいいんです。

 その次はこの目です。この目というものもやはり正しく見なければいけない。偏らない中道という、この目で物を見るときにおいて、我々はこの目で色々と苦しみを作ります。例えば、東京あたりは電車に乗っていますと、いい歳をした人が奇麗な女性が乗ってくると、心をフラフラさせてきれいだと思っている内はいいけれども、裸にして見ているんです。もうこうなったら駄目です。まあ、金沢の人間はそういう人はいないと思います。こうして心で見るというのも、そういう意味で目で見るということは毒を食べる要素があるんです。だから、これもやはり正しく見なければいけません。

 その次に語ることです。毎日喋るということは、相手に意志を通ずることです。人の悪口を言ったり、或いは自分を誇張したり、自分のこの言葉というものは正しく語らなければいけません。聞いたり、見たり、語ったりすること、こういうことも正しい中道という道を通して皆さんは生活してみてください。

 最も大事なことは皆さんの思うことです。思うということは何処の国にも法律がないのです。

 現代、国の法律、こういう法律は、人間の行動というものを制約し、社会の秩序を保つために法律があります。これはあくまでも人間の行動の法律です。しかし、人間の心の中で思うということも、やはり正しい法則があるということを知らなくてはいけません。ノイローゼの殆どがその道を知らないからです。

 飛行場からここまで高速道路がきれいなのが出来ておりますね。それにも必ず、道には法則があります。この道路交通法という法則を通して守らなければ駄目です。行なわなければやはり法則なんて作ったって無駄です。この行なったときに初めて我々は、調和ということがあるわけです。では調和というものは一体何かというと光です。神は光なりといいます。即ち人生航路においては、生から死までの道があります。その道を歩むためには法則が必要です。この法則を度外視して我々は生活をしたときに自分で苦しみを作るのです。それ故に我々はこの法則を正しく知ることです。

 その法則とは一体何か。

 難かしい哲学用語の中にあるのではないのです。皆さんは般若心経の中に、観自在菩薩行深般若波羅蜜多照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子というお経があります。あんなのを聞いて皆さん分かりますか。いわんや法華経を一生懸命やっている人達が爾時世尊従三昧安詳而起告舎利弗なんて何を言っているか日本語に直訳したらどういうことになると思いますか。

 爾時世尊、その時にお釈迦様は禅定三昧に入っておった、おもむろに立ち上がって舎利弗に告げました。

 正法というものは、難至難解、難しくて入りにくいんだよ。こうやって言っているんです。これを毎朝毎日仏壇や仏様の仏像の前に行って、皆さんお経を唱え、爾時世尊従三昧安詳而起告舎利弗と言ったら、おそらくお釈迦様だったらこの馬鹿野郎めと、これはわしの説いたものだと、お前はそれを実行したらどうだって皆さん言わないでしょうか。では、南無阿弥陀仏は一体どうですか、これは元を正すと南が無いと書いてある。これは南はあるんです。名古屋へ行くとソーダナーモと言います。ソーダナーモとは調和ということですよ。そうですねということです。それが仏教用語、真宗王国ですからね。門徒もの知らずなんていう位ですから。これナーモといいますね。

 南無阿弥陀仏のこのナーモとダーボというのは、インドの古代語です。

 このアミーというのはギリシャの言葉です。今から約五千年くらい前にエジプトという国にファラオがいます。このファラオ(王様)はアモンといわれ、このアモンと言われるファラオは、人間は自然に帰れと言って、人間の心はあの太陽のように丸く豊かで、そして暖かい人間にならなければいけないと言って道を説きました。そのアモンが説いたものが、更にアモンはエジプトで約千二、三百年経つうちにアーメンになります。それからこれがギリシャに渡りましてアミーになり、ギリシャから今度はインドにバラモンとして渡ってアミになり、アミシュバラーという名前になります。

 ところがゴーダマブッタの当時に、このアミというのがバラモン教の仏教の一番元ですね。その頃のバラモンというのは非常に他力化され、しかも階級制度の厳しい世界で、バラモン種というのは、聖職者として神様に仕える人々だったのです。そのために日本でいう士農工商と同じような厳しいカースト制度を作りました。彼らは神の名のもとに、多くの大衆を犠牲にして、バラモンはその上にアグラをかいていました。ゴーダマシッタルダーはそういう一つの矛盾に対して、お天道様は一つではないか、皆同じに当たっているではないか、人間は全て平等だということを説いていきます。

 こういう時に、バラモンに伝わってきたところの神様にアミーというのがいたのです。これはアモンという光の天使が国を経ていくごとに名前が変わったのです。そしてゴーダマ仏陀釈迦牟尼仏がマガダ国というところで、説法をしております。

 その当時に、ラジャグリハバーストというところの王様の奥さん、皇后陛下です。これがイダケダといわれる方でたまたま息子に幽閉されていました。その時に息子に、私の一生のお願いだが、ブッタを呼んで是非説法を聞きたい、何も要らないと言った時、ブッタはその要請によって、イダケダといわれるコーサラ夫人に神理を説くのです。あなたは今このような厳しい囲いの中において生活をしているが、決して、自分の息子を恨んではいけません。恨みを以て恨みに報じてはいけません。あなたは忍辱することです。どんな辱しめを受けても自分の心の中に毒を食べてはいけません。やがてあなたは、弥陀浄土に行くのです。西方浄土というところにあなたの帰る場所があるのです。当時インドから、エジプト方面からイスラエル方面は西です。あの西の上の方の天国に弥陀浄土というのがあるんですよ。ですからあなたの心は常に道をよく正し、仏法という法則をよく知って、これを毎日の生活に行なって、弥陀浄土の光明の世界に帰ることが出来るのですと説いたのです。

 そうしたら日本へきたら、この意味ということは、南無は帰依する。陀仏は悟った方です。阿弥陀という悟った方に帰依するということですよ。それを皆さんが、仏壇の前かお寺へ行って、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。これを日本語に直したら、どういうことになりますか。阿弥陀様に帰依します。阿弥陀様に帰依します。阿弥陀如来の仏像の前に言ったら馬鹿野郎め、帰依するなら実行してくれというはずです。それを2時間も3時間も拝んどって、たまたまインドの言葉とギリシャの言葉がミックスされているから言葉の意味が分からないから丁度いいのです。これが現代語で翻訳されちゃったら、これは拝むのじゃないと皆さん分かりませんか。

 阿弥陀様の法に帰依するということはやはり、道に帰依するということです。帰依するということは行なうことです。道路交通法も行なわなければ事故が続出します。

 やはり我々は思うことと行なうことの在り方を、正さなければならないのです。そして我々は自然の中に生かされているのです。それ故に、あの太陽は莫大なエネルギーを無所得のままに与えていることは、何を教えているかということです。我々はその自然に感謝せよと教えているのです。しかし自然界は全て輪廻しています。感謝だけでいいでしょうか、感謝は行為をしない限り感謝の意義がないのです。即ち報恩という行為は、感謝の行為が必要です。報恩のその恩に報いるということです。

 ところが現代はどうでしょうか。報恩という行為がなければ感謝などいくらしても駄目です。食事をする時に、一生懸命手を合わせて、何を考えているか知らんけれども、そうしてご飯を残したり、食物を残したり、どういうことになるんですか。あのお米一粒でも彼らは人間の血や骨になるために自らの命を布施しているのです。供養しているのです。それに対して報いることは、やはり無駄にしないことではないでしょうか。それを唯、形だけで手を合わせたところでちっとも悦びません。鶏も豚も牛も自然界にある人間の血や骨になるもの一切は、我々のために自分の命を投げ出しているということを知ったならば、無駄にしない、感謝して食べるということです。それは形で手を合わせるだけではありません。心と行ないの中に調和がなければならないはずです。こうして我々は、報恩と行為は輪廻しないかぎり、駄目だということです。

 現代社会においては、その恩に報いるということ、親は無所得のままに子供を育てた。それに対して、親孝行するということは人としての当然の道なのです。その道を忘れて、親は憲法によって育てるのは当然だと、冗談ではないです、憲法なんて人間が作ったものです。自然は人間など作れません。自然の姿は神の心の現れなのです。この自然の法則は人間によって変えることは出来ないのです。これを、仏教では諸法無我といっております。諸法という宇宙の諸々の神理法則は、人間の我によって変えることが出来ないもの、不変的なもので、諸法というものは人間の我、偽我が入らない。こういうものが本当の道です。

 ところが最近の仏教は難しい言葉を知って、それを説明する。こういうのが仏教だ。東大の印哲の教授が、私のところに、おまえのような電気屋は、般若心経なんかを書くのはとんでもないことだ、幸いにして売れないからいいけどなんて言って、残念なことにベストセラーになっています。ですからその先生にお手紙を出しました。お手紙有り難うございました。インドのお釈迦様は東大の何期の卒業でしょうか。イエス・キリストはどこの大学出たか一つ教えてくれと手紙を出しました。手紙は来ません。イエス・キリストはかつては左官屋の息子だって聞いているけど、私が電気屋で何でこんなことを言って悪いのか。こう言って手紙を出したのです。あなたが本当ならあなた自身悟っていなければならないはずだ。悟っていないってことはどういう訳ですか。その位の印哲を出たような人なら大衆をなぜ救えないのですか。自分の頭だけでものを考え、知識だけで考えて智慧のない人間です。

 人間の知識というものは、行ないという知識をとって行為する。行ないがなかったならば、智慧には変わらないのです。智慧というものは、心の中から出てくるパニャーパラミタです。このパニャーというものは、皆さんの心の中にあるところの智慧です。その智慧というものは、行ないがない限り、得た知識を実践しない限り、智慧には変わらんのです。それをただ知識だけで行ないもなく、だったらとっくに東大の印哲、京大の印哲を出た先生達がなんで学問もある日本人の心も救えないのですか。なんだったら、インドヘ行って無学文盲の人達に説いてみたらどうですか。パニャーパラミタ言ったって分かりませんよ。ガンジーですら困っているんだから。ですから人間の心という価値観を知らないで行ないもしないで、そういうことで、知識だけを知っている人間、こういう人間はちっとも偉いとは言えません。人間自身の本当の道は、こういう諸法無我なる大自然の不変的な神理を通して人間が得たその知識を行なうことが大事です。その時に初めて行即光ということになります。

 行は即ち光になる。心の中のスモッグを除くからです。

 そこで皆さん自身が、自分の心の中に思ったこと行なったことが、もし、恨みや妬みやそしりや怒りや愚痴、情欲、こういう足ることを忘れさった欲望。こういうものが皆さんの心にスモッグとなっているために神の光を自分で遮っているのです。ですから本当に、諸法無我なる神理を知って生活をしている人達は奇麗に頭の上から後光が出ています。しかし毛が無くて光っているのは駄目です。これは後光ではありません。心の中が丸く豊かで平和で、そして人の言うことを感情を高ぶることなく、正しく理解し、善意なる第三者の立場に立ってものを聞き、そしてものを見、ものを語り、ものを思い、そして自分が毎日の生活の中を一生懸命に与えられた環境の中で、不平不満、愚痴を言うことなく正しく仕事をし、そして自分の一日をよく振り返ってみて、あ、こういう事は間違っている。こういう事はもっと行なっていこう、こうして自分を反省出来る人間になることです。反省をするためには反省の規準が大事です。その規準が八正道という偏らない中道の道です。

 そして皆さんの心が反省によって心の中のスモッグを除き、丸い心になった時、動かないあの池にお月様がまん丸く映っているように、皆さんの肉体の呼吸を調和させて、丸い豊かな心で反省し心のスモッグを除いて、瞑想をした時に、初めて皆さんの内なる神と対話することが出来るのです。

 こういう生活をしている人が本当の信心深い人だということを知らなくてはいけないのです。他力本願によって人間は絶対に救われない事実は、世界の全人類をみても分かるでしょう。

 人間は行なうことです。正しい法則、不変的な諸法無我なる人間自身の我の入らない、神の心の姿のままの自然を、己の心の物差しとして生活をすることが、本当の人間としての信心深い人だということなのです。それを我々は知らないで、滝に打たれて霊感がほしい。一生懸命に打たれている間に声が聞こえてきた、そのうちに人のことが分かる、病気も治した。それ生き神様とこうくるのです。そういう生き神様に限って、強欲でそして回りの者はその機嫌取り、これが現代宗教です。法蓮華経も同じです。南無妙法蓮華経を拝めば人間は救われると言っているが、本当に救われている人は一人もいないということを知らなければいけません。法蓮華経の法は宇宙の神理です。ゴーダマ釈迦牟尼仏が多くの衆生を前にして、諸々の衆生よ、あのどぶ沼の中のハスはきれいに調和されているではないか、そなた達は一体どうだ、そなた達の体を見よ、そなた達の体は目を見れば目糞、鼻糞、耳糞、汗大小便、あのどぶ沼より汚いではないか。しかしそなた達の心は、宇宙の神理を知って生活をしたならば、あの蓮の花と同じように調和された安らぎの境地になるのだ。

 こうやって説かれたものがいつの間にか、南無妙法蓮華経、日蓮さんのように南無をつければもっといいではないかなんて。そして人間が本当に必要なら、生まれてきた時、法蓮華経と生まれてくればいいのです。そうやって生まれてきた人は一人もいないんです。或いは曼荼羅が、絶対必要ならば、何故生まれた時に神は与えてよこさなかったのでしょう。ぶら下げてきたものは皆んな違うはずです。神は必要なものだけ人間に与えてあるのです。

 我々はそんな題目を拝む前に、自分自身の毎日の生活の中で、恨みや妬みやそしりや怒りや愚痴、或いは足ることを忘れさった欲望、こういうものを正して生活をし、その人達こそ本当に正しい信仰深い人です。それが道なのです。我々は、本当に神の子としての偉大なる価値を忘れているのです。

 苦しければ遂に他力の道に走り出す。他力ではないのです。心のスモッグを晴らせば黙っていても太陽の光りと同じように、光明に全て調和を与えるものです。人間は自分自身の心の歪みを治すことです。
 そのストレスを治さない限り、我々はそのような調和は生まれて来ないといえましょう。

 現代の思想を一つみてもそうです。マルクス主義も同じでしょう。マルクス主義の根本も物と経済というもの、この物の価値判断分配によって決まってるのです。ですから彼らの中でも同じ同志でも、闘争と争いを起こしているでしょう。

 最近は、おかしな宗教と一緒に組んで共産党がやってみたり、賛成だ、反対だ。資本主義は一体どうでしょう。ケインズの資本主義経済理論も、戦後の日本の経済はあれで支えられてきたと思ったら、公害が出たとたんに、あの資本主義経済理論も覆えりつつあるではないですか。諸法無我は変わらないのです。宇宙の神理は変わらないのです。お金とか物の価値判断の上に立って、人間が奴隷になってはいけないのです。資本主義も社会主義のものの考え方も全てが人間性の価値観を忘れて物の奴隷になっているために闘争と破壊が尽きないのです。

 我々は、生まれてくる時にお金を持ってきた人は誰もいないのです。死んで持って帰る人も誰もいないのです。こう考えたならば、我々は生きている内にそれを多くの人々に、有意義に使えてこそ本当の金の価値があるのではないのでしょうか。そんなことはない、お金さえあれば人間は幸せになるんだと皆さんが思うならば、あの青森県の六ヶ所村という貧乏な村がありました。それが工業誘致によって、坪五百円か六百円のが五千円、一万円になったら、お百姓さんに入った金が一億だ、五千万だという金が入った。ところがその前までは、東京、京浜方面にぜんぶ出稼ぎに行った父ちゃん連中が、まとまった金が入ったから仕事をしなくなった。その内に外に今度は違う女をつくるようになってしまった。その結果家庭の中を皆破壊してしまった。これはどういう訳でしょう。

 私の住んでいる大森というところも海苔の補償がはいりました。その当時に、莫大な金が入ったから、パーと使い込んだ連中は皆スッテンテンになっちゃっております。家族もバラバラになっております。真面目な人達はマンションを作ったり、アパートを作って、堅実にやって家庭の中を調和している人達は皆幸せになっております。お金が人間を不幸にしているのです。金というものも無常なものです。金はなくてはならんし、あまり有りすぎても欲望を尽きることなく苦しみを持って行きます。

 人間の本当の幸せというものは、まず健全なる精神をつくることです。豊かな心をつくることです。健全なる肉体をつくることです。そして、人間は永い歴史の中につくり出したところの現代社会に生きるために、経済の調和というこの三つの柱がない限り、人間は幸せになれないのです。そのために、我々はまず、物の奴隷から己の心を解放して、心こそ不変的な価値のある、永遠の生命だということを知ってほしいのです。

 そして、皆さんが、もし疑問を持つならば、この中からも永遠の生命として、あらゆる転生輪廻をしてきたところの事実を、皆さんは自らして理解出来る人も出てくるのです。日本語しか知らないのに、自分の生まれた過去の言葉が皆さんの口から自由に出てきたらどうしますか。ゴーダマシッタルダー釈迦牟尼仏の当時に、皆さん五羅漢とか五百羅漢という話を聞いたことがあるでしょう。羅漢とは、アラハンとはどういう人達でしょう。彼らの心の中の窓が開かれて、そうして自分はかつてこういう事を何年頃に学び、こうして何歳でこの地上界を去って、こういう転生を続けて、今日本に生まれているということを、皆さん自分の口から語り出したらどうしますか。

 まあ、この中にも神様が出るという人は何人もいます。憑依されている人もいます。そういうような人達も本当に自分にいるのが神か仏か皆さんの前ではっきりと見せてあげましょう。ですから一番大事なのは、正しい毎日の生活をしている人達が本当の信心深い人だといえましょう。そして又転生輪廻の永遠の生命を、自分の口を通して語り出してきます。そして何年頃私はこういう生活をしてきた。その時の国の言葉で語り始めます。皆さんも同じなのです。皆さんも永遠の生命として今、日本人として皆さんが自分で望んであの世で、お父さんになってください、お母さんになってください。そういう縁生を結んで今、日本人として肉体を持っているのです。こういうことが全部分かっていくような人をアラハンというのです。ですからアラハンというのは、イエス・キリストの時代にも、過去世のことを思い出して語っている事実が聖書の使徒行伝第二章の中にあります。そうして人間は皆今だけ在るのではないのです。皆さんも永遠の生命として、いま自分の与えられた環境は皆さんの魂の心の修業の場だということを知らなければならないでしょう。
(現象は省略させて頂きました)

 


   

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